GLN町井正路訳「ファウスト」

第二十五場 牢獄

 ファウストは声を張り上げて。
 
ファウスト  マーガレット、マーガレット。
 
 マーガレットは初めて恋人の声に気付き、嬉しそうに。
 
マーガレット  今のはあの御方の御声。
 
 嬉しさの余り、飛上がった機(はずみ)に、不思議や鉄索はもげ落ちる。
 
 どこに御出で遊ばすのか、確かに聞えました、もう妾は助ったも同様、何が来ても 大丈夫、彼の御方の温い懐(ふところ)に縋(すが)りましょう、あの御声は敷居の 辺りじゃ無かろうか、此の喧閙(さわが)しい地獄の中で、鬼の怒号を打消したあの 御声が、あゝ、しみじみと嬉しい。
 
ファウスト  私だよ。
 
マーガレット  おゝ、貴郎でしたか、もう一度云うてください。 (ファウストに縋り付く) 矢張り彼の方だった、辛い思いは何処へやら、牢獄の苦しみも、鉄索(くさり)の痛さ も消えて了った、貴郎、助けに来てくだすったの、もう安心です、あら、初めて御目に 懸ったあの街(まち)や、隣家(となり)の小母(おば)さんと御待したあの庭が、 ありありと妾の目に映りますわ。
 
ファウスト  さあ、私と一緒に御出で。
 
 ファウストは極力少女を連出さんとすれど、マーガレットは応ずる色なく、 ファウストに抱き付きて。
 
マーガレット  まあ、此処にいらっしゃいな、妾は貴郎の御傍に居とう御座います。
 
ファウスト  急ごう、御身が急がないと二人ともやられて了うから。
 
マーガレット  あら、貴郎は未だ接吻して下さらないのね、一寸の間にまさか御忘れなさったのじゃ ないでしょう、御側(そば)に居ても、何故今日は胸騒ぎがするでしょう、例時(いつも) は 御顔を拝んで御声を聞いたばかりで、天へでも昇った程嬉しいのに、其の上窒息するまで 接吻してくださったでしょう、さあ、なさいな、妾がして上げましょうか。
 
 マーガレットはファウストを抱いて接吻する。
 
 あゝ悔しい、貴郎の唇は冷たくって動きませむ、愛情は何処へ置いていらしった、 横取したのは何処の誰です。
 
 マーガレットはファウストを振り離してあちらを向く。
 
ファウスト  さあ、一緒に行こう、一番勇気を出してくれ、あっちへ行ってから御身(おまえ)の 気のすむまで抱き緊めて上げるから、まあ行ってくれ、一生の御願いだ。
 
 マーガレットはファウストの方をふり向いて。
 
マーガレット  貴郎ですか、間違いじゃありませんか。
 
ファウスト  私だ、さあ行こう。
 
マーガレット  貴郎が此の枷(かせ)を解いて、そして抱いて下さるって、どうしてそんな事が、 まあ恐ろしくはありませんか、一体貴郎が御助け遊ばす相手は何者だか御存じ ですか。
 
ファウスト  さあ、行こうじゃないか、もう夜が明けてきた。
 
マーガレット  妾は御母さんを殺して、現在我が子を川へ投げました、否(いえ)、貴郎と妾とに 授った児で御座います……、おや貴郎ですか、違う様だわ、じゃ手を見せてくださいな、 夢でしょうか……、貴郎の御手に相違ありませんね、まあ、濡れて居ますよ、御拭き なさい……、おや血じゃありませんか、あゝ貴郎は何をしていらしったの、刀を鞘に 納めて下さい、御願です、御願です。
 
ファウスト  過ぎた事は致方(しかた)がない、そう云われると私は死にたくなるよ。
 
マーガレット  否、貴郎だけは生残って下さい、墓の事は特に御頼み申しますが、何よりも先に 明日御運びを願います、御母さんのを一番好い所へ、其の側へ兄さんの……、少し 離して妾のを、然かし余り遠くはいやよ、それから赤子(ぼう)のは妾の右の胸の あたりへ据えてね、妾の側には誰のも置かない様にしてください……、貴郎と御 一処に居るのが何より嬉しゅう御座いましたが、とても添遂げることは出来ません ……、妾は無理からでも御側へと思いますけれど、貴郎は嫌に御なりでしょう……、 否、否、矢張り貴郎は実のある親切な方よ。

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