GLN町井正路訳「ファウスト」

第十六場 マルタの庭園

 ファウストはマーガレットと語る。
 
マーガレット  妾に約束して下さいな、ハインリヒさん。
 
ファウスト  私の出来る事なら。
 
マーガレット  外でもありませんが、貴郎の信仰遊ばす宗教を聞かして戴きたいんです、貴郎は実に 可愛らしい良い御方ですが、宗教の事は深く御考えなさらぬ様に見えますから。
 
ファウスト  そんな話は止めにしましょう、私がお前を愛して居ることは解って居るじゃないか、 こうなるからは命も惜みはせぬが、それだと云うてお前の信仰までも妨げはせぬよ。
 
マーガレット  それじゃいやよ、宗教は信ぜねばならぬものです。
 
ファウスト  何故(なぜ)。
 
マーガレット  あゝ、貴郎を動かす力が有りましたなら、きっと信じさしてあげますもの、 貴郎は精霊を信じなさらぬのでしょう。
 
ファウスト  いえ、尊敬致して居りますよ。
 
マーガレット  尊敬するだけでは物足りないわ、心の底から御願いなさいな、此頃は懺悔話 (ざんげばなし)に教師さんを訪れなさる御様子もない様ですが、それで貴郎は神様を 信仰遊ばしますか。
 
ファウスト  マーちゃん、よく考えて御覧、「私は神を信ずる」と断言する人があるだろうか、之は 仲々の難問題で、僧侶でも哲学者でも即答は出来まい、質せば質す程愚弄される位が落 だよ。
 
マーガレット  では信仰遊ばしませんか。
 
ファウスト  私を誤解しては困るよ、苛旦(かりそめ)にも神に命名したり、神を信ずるとか信ぜ ぬとか、断定を与え得る程の大胆者はまああるまい、よいか、宇宙間の万物を包容し、 一切を支持し給う者があると思いなさい、お前も私も、支持者自身も、此内に包まれて 居るのだ、天は蒼々として上に懸り、地は牢乎として下に横わり、星辰は優しい光を 放って永久(とこしえ)に輝いて居る。今お前と私とが互に見詰めて居ると、頭や胸の 中は云うに云われぬ感じがするだろう、之が即ち神秘の業で、見えつ隠れつ運命を織り 出して居るわけなんだ、此の至大無限の力を宿して、心に幸(さち)満々たる時、お前 の思う通りに名を付けるがよい、幸福と云い、心と云い、恋と呼び、さては神と唱えても 御随意さ、私は別にそれに名は付けない、唯だ感ずる許りだ、名前は響や烟の様なもの で、天の光を曇らして仕舞うからね。
 
マーガレット  貴郎の有仰(おっしゃ)る事は実に立派な善い御言葉です、牧師さんも丁度同じ様な 事を申されました、言葉が幾許か違って居りましたけれど。
 
ファウスト  太陽の恵みの光が輝く処は、何処でも夫々異(ちが)った言葉で云い表わして居る のに、何故俺許りが自分の詞で云うことが出来ないのだろう。
 
マーガレット  御尤もの如(よう)に聞えますが、未だ妾の腑に落ちない点が御座います、貴郎は 基督教を信じなさらぬ御様子ですから。
 
ファウスト  仲々強硬だね。

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