GLN町井正路訳「ファウスト」

第十五場 マーガレットの部屋

マーガレットは独り糸車を廻して歌うて居る。
 
マーガレット  (歌う)
  心の平和消え失せて、
  胸裡(むね)の悩みぞやるせ無き。
  何時かは消えむ妾(わ)が思い、
  噫、そは永久(とわ)に望み得じ。
 
 懐かしの君坐(おわ)さねば、
 生れし家も墓場なり。
 生存(ながら)うことの切なさよ、
 万事(よろず)は妾(われ)につらくして。
 
 弱き女子の頭(かしら)には、
 弱き女子の五感には。
 思いわずらい思いわび、
 思い倦(うん)じて又迷う。
 
  心の平和消え失せて、
  胸裡の悩みぞやるせなき。
  何時かは消えむ妾(わ)が思い、
  噫、そは永久(とわ)に望み得じ。
 
 ゆかしき君を思うては、
 窓に凭りつゝ伏し沈み。
 逢う瀬いつぞと焦がれては、
 門に空しく立ちつくす。
 
 凛々しき君の歩み振り、
 気高き君の御姿よ。
 笑(えみ)を湛えし唇に、
 力こもりしその眼元。
 
 口より洩るゝ御言葉は、
 魅するが如く聞ゆなり。
 握手の力身にしみて、
 燃えゆるが如き其の接吻(キッス)。
 
  心の平和消え失せて、
  胸裡の悩みぞ遣瀬無き。
  何時かは消えむ妾が思い、
  噫、そは永久に望み得じ。
 
 君が御傍(みそば)に行かばやと、
 妾の胸はもだゆなる、
 あわれ君を抱き得ば、
 永遠(とわ)に離れじ離れまじ。
 
 心ゆくまで唇(くち)とくち、
 又くり返し繰りかえし、
 斯くて妾は死するとも、
 思いおく事更になし。

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