GLN町井正路訳「ファウスト」

第八場 晩方

 小ぢんまりした部屋で、マーガレットは辮髪(べんぱつ)を結びながら 独り語る。
 
マーガレット  今日遇った紳士は何と云う方だろう、誰か教えてくれる人はないか知ら、実に男らしい 方だわね、きっと貴顕の方に違いない、額で分りました、それでなけりゃあんなに無遠慮 じゃありません。
 
 マーガレットは髪を結び終わって隣家へ往く、代ってメフィストフェレスと ファウスト登場。
 
メフィスト  お這入りなさい、出来るだけ静かに、さあお這入りなさい。
 
 ファウストは暫時黙然として居たが
 
ファウスト  御願だ、何卒僕を残して帰ってくれ。
 
メフィスト  (あたりを見廻して) 此の女の美麗(きれい)好きはまた特別だ。(と評して去る)
 
ファウスト  (あたりを見廻して) 此の神聖な処で、黄昏の光に浴するのは何とも云われぬいゝ心地だ、之が恋人の室かと 思うと、行先が案じられて躯も縮まる様な心地がする、此室は平和と秩序と、満足とを 以て充たされて居るから、有形には貧しいが、無形の幸福が限りなく蓄えられて居る、 此の陋窟に此の祝福あるは実に意外だ。
 
 寝床の側にある革の安楽椅子に身を投げて。
 
 楽しみに対しても、苦しみに対しても、常に手を拡げて歓迎し、嘗て拒んだ事のない 寛大な此の椅子に、僕も一つかけさして貰おう、此の家庭の玉座の廻りで、可愛い顔の 子供たちが、父を相手に戯れて居たのが目に見える様だ、恐らくはマーガレットも、 幼い時他の子供と一緒に、クリスマスの贈物を貰った礼に、此の椅子によりかゝって居る 祖父の痩せた手に接吻した事だろう、此室の有様が即ち我恋人の精神を顕わして居る、 斯る精神を持てばこそ、正しい行路が歩まれるのだ、食卓にかけてある布は、雪の様に 白く一線の皺もない、庭の砂は塵一つ残さぬ様に掃いてある、真に此の茅舎を変じて 天国と化するものは、愛らしい処女の手である、 (寝床の幕をまくりあげて) 今此の寝所を見て、一種名状すべからざる快感を禁じ得ない、僕は此処に何時までも 居たい様な気がする、此寝床の前に居る自分は、宛かも今将に開かんとして居る蕾の内 から天女の現れるのを待って居る者の様だ。
 
 処女が此所に憩う梳き、温かい愛の神様がその優しい胸の内に休んで居るのだ、僕は 此所へ来て始めて神聖潔白な神の姿を見ることが出来たのだ、一体俺は何をしに此処へ 来たのだろう、此様に感情の激発した事は嘗てない、俺の心は何を求め様として此様 に苦しむのだろう、あゝ情けない、俺はもう自分で自分が解らなくなったのだ、僕は 魔気に包まれて居るのでは無かろうか、一時の愉快を得んが為めに此処へ来たのだが、 恋の夢路を辿りつゝ殆ど感覚を失って了った、あゝ、人間は斯くばかり外界の刺戟に 支配せらるゝねのかなあ。
 
 今若し彼の女が此処へ来たならば、どうして此の暴行を謝したらよかろう、其の時は 大の男が小さくなって、女の足下に平伏し、言語を尽してわびる外はない、あゝ俺は何 たる馬鹿者だろう。
 
メフィスト  さあ出ましょう、もう帰って来ましたぜ。
 
ファウスト  君だけ行け、僕はもう帰らんから。
 
メフィスト  さあ、此の小匣(こばこ)が御約束の贈物です、うまく適当な品を見付けて来ました、 早く其戸棚に御入れなさい、処女の欲しがりそうなものばかり入れて置きましたから、 之と引換に貴君の求めて居るものが得られるわけです、如何に潔白な処女でも、斯う 旨く仕組んだ芝居は見抜く事ができないでしょう。
 
ファウスト  そうするのであったかね。
 
メフィスト  何ですって、恍(とぼ)けっこなしですよ、貴君の望みでこんなつまらぬ事をするの でしょう、それに今更そんな挨拶をされると反って私の方からなぜ貴君が情欲を制しな かったと詰問したくなります、そうすれば私も面倒でなくていくら良いか、其れはさて 置き前途は有望です、請合います。 (戸棚の内へ小匣を入れて再び錠を卸ろす)
 
 さあ早く行きましょう、之をこう戸棚へ入れて置きさえすれば、美人は貴君の意思の まにまに誘惑されて了います、なぜそんな顔をするんです、此処は教室じゃありません よ、形而上下の諸学が憂然として面前に立列んだ時の様に苦い顔をしちゃ嫌ですね、 さあ出ましょう。
 
 両人退場。

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