GLN町井正路訳「ファウスト」

第六場 魔女の厨房

メフィスト  老婆、其名で再び俺を呼んでくれるな。
 
魔女  何故です、そう云うては御為めにならぬのですか。
 
メフィスト  其名は昔から物語などに見えて居るが、之れぞと云う感応を人間に与えた事も無い、 人間は一つの悪魔を免れても、まだ沢山の悪魔に取つかれて居るのだから、そんな忌ま わしい名を呼ばずに男爵閣下と呼んでくれ、其の方が似合うだろう、僕は貴族に相違い ないのだ、僕が高貴の血統たる事を疑ってはいけないよ、見給え僕は此の徽章を帯ん で居るではないか。
 
 云い終って彼は野鄙な様子をする。
 
魔女  (大に笑う) ハァハァー、御得意が出ましたね、閣下は矢張元の通りの一風変った滑稽家ですね。
 
メフィスト  (ファウストの方を向いて) 先生、よく御分りですか、これが魔女を御する方法です。
 
魔女  御両君、何を御求めになるのですか。
 
メフィスト  有名な液の一杯、僕は最も古酒ならんことを願うのだ、年を経れば其の力が倍になる から。
 
魔女  喜んで差上げましょう、此処に一瓶があります。妾は時々飲んで居りますが、少しも 悪臭を発しません、御安い御用です。
 (低声で) しかし、此人が準備なしに飲んだら、一時間と生きては居られない事は、閣下も能く 御承知でしょう。
 
メフィスト  僕の親友なんだから有効にやってくれ、
 其方(おまえ)の台所で、最上のものを飲ましても吝いと思わぬ、さあ、其方は例の 輪を画いて呪文を唱え、而して波々と一杯注いでくれ。
 
 魔女は不思議な様子をして輪を画き、其中に妙な物を入れる、其間に コップは響き、釜は鳴り出して音楽を奏する、終に、大きな本を持ち出して輪の中に 猿共むを容れて、文机の代りとして又炬火を持たせなどして、ファウストに接近の 手招きをする。
 
ファウスト  (メフィストフェレスに向い) 一体之は何の意味なんだ、此の変な器具、此の狂態、此の最も嫌らしい奇術は何になる のだ、僕は心から排斥するよ。
 
メフィスト  勿論御覧の通り、一笑を価するに過ぎない呆事に相違ないが、まあそんなに気六敷し くし給うな、液を貴君に効果あらしめんが為め、魔女が医者として一種の奇術を演ずる は実に已むを得ぬのです。

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