GLN町井正路訳「ファウスト」

第六場 魔女の厨房

No.6魔女の厨房
 
 猿共の注意を忘れて居た大釜は、沸騰し始め火焔起ち上りて煙突に のぼる、魔女は恐ろしい叫声を放ちて、火焔の中を矢を射る如くとび下る。
 
魔女
 ウーウーウー、
 牝豚にも劣る獣め、
 釜の見張りを怠りて、
 主人を焼きしか思い知れ。
 
 ファウストとメフィストフェレスを瞥見して、
 
 何者なるぞ其処なるは、
 誰人なるぞ其処なるは、
 何用ありて来りしか、
 無断で入りしとあるなれば、
 此の火を浴せて、
 骨まで焼いて参らせん。
 
 云いも終らず大釜の中に柄杓を投じ、ファウスト、メフィスト及猿共 に焔を注ぎかける。
 
メフィスト  (手に持ちたる羽箒を振り廻して玻璃や甕を打壊す)
 毀れよ、毀れよ、
 粥の器も玻璃の器も、
 微塵となりて散れよかし、
 小猿等の妙なる歌は、
 面白かりし時なるに、
 むざむざ興を敗りしは、
 愚にも付かざる馬鹿者め。
 
 憤怒と恐怖の念に満ちたる魔女は、不思後しさりする。
 
 おい俺を知らないのか、此の骸骨変化婆め、御主人様の顔を見忘れたか、俺を妨げる 事のできる者は何処にある、其方(おまえ)でも其方の怪猿でも抵抗してみろ、忽ち 災に会わしてやる、おい、此の紅い上衣に敬意を表せんのか、此の雄鶏の尾羽を識る ことが出来ないのか、俺は顔を隠して来はせぬぞ、名乗らなくっては了解せぬと申す のか。
 
魔女  御主人様、誠に軽率な御挨拶を致しまして相済みません、御許しを願います、しかし 妾はまだ馬の脚を見ません、閣下の二羽の鴉は何処に居りますか。
 
メフィスト  久振りで会ったのだから、まあ此度は免してやろう、教養錬磨の結果は近世の文明を 産み出し、今や全世界を舐め終らんとして居るのに、悪魔のみが旧習を墨守して居る筈 が無い、此国の空想時代も、今は神話となって仕舞ったじゃないか、其れだから悪魔も 角や尾や爪などを隠したのだ、脛も無くしたのではない、要するに人の誤解を避ける 為めに、青年の扮装(いでたち)をして犢(こうし)の皮の沓を穿いて居るのだ。
 
魔女  (小踊して) 妾は青年魔王を茲に再び拝するのを得たので、嬉しさ余って殆ど思慮も分別もなくなり ました。

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