GLN町井正路訳「ファウスト」

第六場 魔女の厨房

 低い炉の上に大釜が懸って居る、釜から立のぼる湯気の中に種々雑多 の形が現われ出る、一疋の牝猿は釜の側に坐って、沸きこぼれぬ様に注意して居る、 一疋の牡猿は子猿と一緒に近く坐って火にあたって居る、壁と天井には奇々妙々なる 魔術の道具が懸って居る。
 ファウスト及びメフィストフェレス登場。

 
ファウスト  僕は狂気じみた魔術は気に入らぬ、こんな化物の巣窟に這入らねば気力の回復が出来ぬ と云うのか、下劣な老婆に相談する必要があるのか、此の不潔な煮烹物(にもの)が 果して僕の生涯から三十年と云う長年月を除き去るだけの効能があるかね、これ以外に 方法がないのなら悲しむべしだ、絶望の外はない、天地の霊も、生命の泉も復活せしむる 妙薬を持って居らぬと見えるね。
 
メフィスト  毎度ながら名論卓説が出ますな、左様、若返るべき自然的方法は未だありますよ、ある 書物などには随分面白く叙述してあります。
 
ファウスト  其れを教えてくれ。
 
メフィスト  其は金銭(ぜに)も医者も、魔術も要らぬ療法です、これから直ぐ野原に出て耘ったり 耕したりして、制限された狭い天地に、貴君の体と思想とを閉じ込めて了いなさい、 粗食に甘んじて牛馬と伍し、家畜と一緒に暮らすのです、而して貴君が収穫する畠に 肥料を施すのを、盗賊の仕事の様にも賤んではいけません、これこそ八十歳になっても、 尚お青年に等しき若さを保たしむる最良の方法です。
 
ファウスト  それ丈は未だやった事がないんだ、鋤を持つ事はとても出来ないよ、僕は御百姓さん には適当して居らん。
 
メフィスト  では結局魔女に依頼する外はありません。
 
ファウスト  老婆が殊別(ことさら)に必要だとはどう云う理由かね、何故君は自分で其の食料を 料理出来んのか。
 
メフィスト  これは随分暇のとれる仕事なので、こんな事をするよりも、寧ろ千の橋を造る方が ましな位です、此の仕事には技術や学理ばかりでなく、辛抱が一番肝要ですから、常に 気を静め心を穏かにして、何年でも熱心にやればやる程醗酵を精巧ならしめ、且つ其の 原料として入れた珍奇な品物の効力を増加するのです、魔王は自ら之を作る事はできぬ のだが、魔女に製法を授けたと云うのは本当です、(猿猴を指して) 御覧なさい、実に可憐な奴ではありませんか、これは下女、あれは下男です、 (猿猴の方に向い)女将は御不在と見えるね。
 
猿共  烟筒から家を出て、饗応に招かれて参りました。
 
メフィスト  何時でも大抵何時間位出遊ぶかね。
 
猿共  私共の手掌を煖め終る時分には御帰宅(かえり)になります。

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