GLN町井正路訳「ファウスト」

第四場 書斎

ファウスト  今学生なんかに逢って居る事は出来ない。
 
メフィスト  可憐哉(かわやそうに)、あの書生は永い間渇望して居たのでしょう、慰藉も与えず に帰すのは残酷(むご)い、帽子と寛袍(ガウン)とを御貸しなさい、立派に教授と なりすまして御覧に入れましょう。
 
 メフィストフェレスは衣服を脱ぎかえて教授に仮装する。
 
 まあ僕の頓智に一任してください、十五分間で沢山です、貴君は楽しい旅の用意を なさるがよい。
 
 ファウスト退場、変装したメフィストフェレスは独り語る。
 
 人間最高の力たる道理と知識とを軽蔑して、ひたすら虚偽の霊に惑わされ、迷想と 魔術とに熱中するがよい、俺は今全く彼奴を籠絡(ろうらく)して了った、渠(かれ) は首尾よく僕のものとなったのだ、大胆で向不見(むこうみず)にやるのは、彼奴の 生れ付だから致方がない、其れだから何時でも空想の予想に忙殺されて、浮世的快楽 の低い階段は知らずに飛超して了うのだ、俺は人生の荒寥たる行路に渠を連出して、 無意味策然たる処を引廻してやろう、而して飽く事を知らぬ罰として、山海の珍味を 誇視(みせびらか)して煩悶させ、喪心させ、思うさま苦しめてやろう、疲れ果てた彼奴 の精神は、健康と爽快とを求めても無益である、たとえ渠は既に悪魔に一身を委ねぬ にしても、身を滅ぼさねばならぬ様になるのは明白な事だ。
 
 一人の学生登場す。
 
学生  御免ください、私は近頃御当地へ参りましたものですが、人々が皆尊敬して、芳名を 教えてくれた偉人に敬意を払い、且つ辱知の栄を得んが為めに、渇仰の念に駆れて 御邪魔致しました。
 
メフィスト  鄭重な御挨拶で恐縮です、私は何も偉い事はない、他の人と同様です、君は既に他処 を尋ねたのかね。
 
学生  何卒先生の御教示を仰ぎとう存じます、母は不賛成で御座いましたが、勃々たる青年 の勇気と、新鮮な血液が承知せぬものですから、応分の学資を貰って有益な事を学び たいと云う望で参りました。
 
メフィスト  それじゃ丁度よい処へ来中てたな。
 
学生  腹蔵なく申せば、私は最早帰国(かえ)りたくなりました、此の壁や室は何だか私の 趣味に適いません、場処は極めて狭隘で、一本の樹もなければ一片の緑も見えません、 又講堂内で見るもの、聞くもの、考えるものは尽く失望の外は御座いません。
 
メフィスト  それは全く習慣の然らしむる処だ、子供も初の内は好んで母の乳房に取り付かぬもの だが、間もなく離れぬ様になると同じで、君も知識の胸に養われて、日毎に愉快を増す 様になるのだ。
 
学生  私は喜んで知識の頸に縋ろうと思いますが、如何致しましたなら知識を探すことが出 来ましょう。

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