GLN町井正路訳「ファウスト」

第四場 書斎

ファウスト  でも俺はやるぞ。
 
メフィスト  いや大胆な御言葉です、恐れ入りました、併し一つ困った事には、「時は短く芸術は 長し」ですから、簡単に私の忠告を容れて一詩人と交際をなさい、其の詩人は想像力を 働かして、貴君の脳裡に美徳を蓄積し、獅子の様な勇気、牡鹿の様な疾速、伊太利人の 様な熱血、北方人の様な沈着剛毅を与えてくれます、又貴君の為めに野鄙と高尚との 中庸を得るの秘訣を見出し、たとえ貴君の胸中に青年の焔が燃えても、愛憎其度を得る 様にしてくれます、僕自身も此様な詩人を見付けたいと思うのです、斯の如き人があれ ば、小宇宙君とでも名付けましょう。
 
ファウスト  それじゃ若し僕の感覚がいくら熱心に努力しても、人間最上の冠には到底達する事が 出来なんだ時は、僕は何物だろう。
 
メフィスト  貴君は矢張貴君です、依然として今と変る事はありません、幾千万の毛髪ある鬘を 冠り、四尺もある靴をはいても、矢張貴君は貴君に相違ありません。
 
ファウスト  君の云う通りだ、僕はこれ迄只だ徒らに心界の財宝を集めて居たのだ、今落付いて 考えて見ると、何一つ新しい力が増したと云うではなし、一本の毛程も高くなったと云う 事もない、又一寸でも無限界に近付きはせぬ。
 
メフィスト  先生、貴君にも似合わしからぬ、御観察が平凡ですね、人生の快楽は僕等の前を過ぎ 去らぬ内に甘くやらなけりゃうそです、いや何の事もない、貴君は手も足も、 頭もある立派な男子です、頭で嗜むのも、手足で嗜むのも、貴君の楽しみたるに於て 甲乙はないでしょう、若し僕が六頭の馬を購い得るとすれば、其の馬の力は皆私のもの じゃありませんか、馬が縦横に馳廻ると、取りも直さず僕が二十四本の足を持って居る と同じ事です、さあ、勇を鼓して御立ちなさい、私と一緒に世界へ乗り込むのです、 とかく瞑想に耽って居る奴は、悪魔につままれて不毛”磽カク(こうかく)”の荒野に 彷徨いながら、青々として美い牧場だと思うて居る動物と同様ですよ。
 
ファウスト  どうして始めるのだ。
 
メフィスト  僕は早く出掛けて、機会を捉えるのです、此の書斎は苦行の場所には好いかも知れん が、此処で自分を苦しめては学生を弱らせる種子を作って居ても、気のきいた生活とは 云えませんぜ、こんな事は隣のワンスト君に一任して御置きなさい、実のない藁を打って もつまらないじゃありませんか、貴君の学び得た奥義を後輩に授け得らるゝと云うでは なし、おや、書生さんが一人やって来ましたぜ。

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