GLN町井正路訳「ファウスト」

第四場 書斎

ファウスト  すぐ契約しよう、若し俺が過ぎ去る「瞬間」に向って「汝美しき時より暫く止まれ」 と云うたなら、其時は俺を鎖に繋いでも構わぬ、甘んじて死に就くよ、其の時に死を 報ずる鐘が響き渡り其方(きさま)の役目は当然終りを告げ、時計の針は墜落し、光陰 は永久に去って了っても構わん。
 
メフィスト  十分熟考なさるがよい、私は肝に銘じて忘れませんぞ。
 
ファウスト  忘れるも記憶するも、其は其方の勝手よ、俺は無闇に決心したのではない、彼の世へ 行ってから奴隷となるのは百も承知だ、但し君の奴隷となろうが、他人の奴隷となろう が、そんな事は頓着しない。
 
メフィスト  今日卒業祝の宴会の時から、貴君(あなた)に対する従僕として私の任務を開始しま しょう、しかし生死は不決のものですから、一二行の証文を貰いたいのです。
 
ファウスト  其方は誇学者(うぬぼれがくしゃ)の真似をして証書を要求するのか、其方は人間の 言語を聞き取れぬのか、口で云うた丈で十分だろう、一生涯の行為は皆言語の反響じゃ ないか、言語を発せしめた意志の抵当じゃないか、もし言語が無効のものなら証書も 無効だろう、数千の潮流互に相激し、相衝き、滔々として進み行く活世界の住人じゃ ないか、一片の約束なんかに縛られて堪るものか、元来此の謬見は人間の心底に固定 して居るのだが、此の束縛に甘んじて敢て脱するものがないのは遺憾だ、胸中汚れの ない真理を蔵して、如何なるものを犠牲に供しても後悔せぬと云う人が、真に幸福な 人なのだ、しかし署名捺印した一片の羊皮は、幽霊の様に誰も之に対して畏縮する、 言語と云うものは筆に上すと最早生きて居ない、其時威張るのは独り封蝋と韋革 (つくりかわ)だけだ、おい悪魔、其方は何を求めんとして居るのか、銅版か、大理石 か、羊紙か、彫刀で書こうか、尖筆でか、ペンでか、さあ其方の望み通りにしてやろう。
 
メフィスト  いや之は気焔万丈、御熱誠の程恐縮です、兎に角紙片(かみきれ)でよいのですから、 一滴の血で署名してください。
 
ファウスト  夫で満足なら、馬鹿な茶番狂言に同意しよう。
 
メフィスト  血液は妙味ある特殊の液体です。
 
ファウスト   誓約を破る様な事はせぬから心配するな、僕は約束した事に対しては必ず其の履行 に全力を注いで努力するよ、是迄は俺は偉いものだと自惚れて居たが、実際は君と同等 なんだ、大神霊には軽蔑され、自然には其門を閉ざゝれ、思想の糸は全く絶ち切られて 了ったのだ、俺は一切の知識を憎む、今後は吾が燃ゆる熱情を肉慾の深底まで沈めねば 止まぬ、凡ての不可解は不透明な魔の仮面で蓋をして置いて、僕は時の激流と事件の 渦中に投じてやろう、苦痛と快楽、成功と失望などは勝手に交代するがよい、休みなき 活動のみが人間の試金石なのだ。
 
メフィスト  貴君(あなた)の進路を妨害するものは無いのです、到る処で甘いものを味い、飛び ながら貴君の欲するものを攫まえなさい、何事でも御望み通りになります、できるだけ 御食べなさい、羞渋(はにかむ)ではいけません。
 
ファウスト  何だ、誤解しちゃいかんぞ、愉快の問題じゃ無いんだ、例えば心を麻痺する様な騒動 でも、大惨劇に終る様な愉快でも、惚れ込んだ末が恨んで別れると云う様な事でも、 煩悶を孕んで居る嬉しさでも、凡ての場合に同様に全力を注いで見ようと云うのさ、 知識の慾望で鍛えた俺の胸は、困難に屈することは毛頭ないつもりだから、人類の為に 造られた凡ての事物を、皆自分の胸中に納めて、其の最高最深のものを精神に捕え、 人類全体の悲哀歓喜を胸に積み重ねたいと思うのだ、而して之等の事物が消滅して了 う迄、努力するつもりでやれば自分の個性を万物の特性に拡張することが出来ると思う のだ。
 
メフィスト  そんな大言を吐くよりも、数千年の間、毎日此の堅い宇宙と云う食物を咀嚼し来った 僕の言を御聞きなさい、人間は生れてから死ぬるまで努力しても、今迄一人として此の 酵母を消化した者はないでしょう。私は断言して置きますが、此の宇宙は只だ神の為め に作られたものです、御覧なさい、神は永久光の中に輝いて居るのに、僕等魔群は暗黒 の中に追いやられ、貴君方人間は昼とも付かず夜とも付かず、うやむやの中に 日を送って居るじゃありませんか。

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