GLN町井正路訳「ファウスト」

第四場 書斎

精霊の合唱
 
 精霊は見えず。
 
 いたましき哉、汝(なれ)はしも、
 美しき世界を破壊しぬ、
 強き拳もて、
 かくて世界は瓦解しぬ、
 半神世界を打砕く、
 散り乱れたる砕片(きれぎれ)を、
 虚無の世界に持ち行かむ、
 いたましき哉、失われたる美の、
 偉大なる人の子よ、
 壊われたるものを今更に、
 汝が胸に作れかし、
 知覚を新にし、
 新なる生命の路つくれ、
 さらば新なる歌は、
 為にうたわれん。
 
メフィスト  これは私の配下の子供たちです、乍併年にはませた怜悧者(りこうもの)、貴君に 快楽と活動とを勧誘して居るのです、人間の感情も、青春の血も、共に寂寞として活気 なき此の尼寺の様な室を去って、遠い世界に御出なさいと云うて居るのです、徒らに 憂愁を弄ぶ事は御よしなさい、心配と云う奴は、貴君の生命を餌とする禿鷲の様なもの です、卑俗な下界を御覧なさい、貴君の外に沢山の人間があるのだと云う事が解ります、 と申して貴君を俗界につき落す考などは毛頭ない、私は貴君に満足を与え得る程の剛の者 でないかも知れぬが、若し私と結托されて、生涯の行路を共にされるなら、私は喜んで 万事万端御世話致しましょう、今から私は貴君のものです、若し御意に適うなら、貴君 の家来となりましょう、奴隷となりましょう。
 
ファウスト  僕は其の代りに如何(どう)して君に酬ったらよいのか。
 
メフィスト  そんな事は今考えずともいゝでしょう。
 
ファウスト  いや、いや、悪魔は利己主義の者だ、善意を以て他人の利益になる様な事を容易に やりはせぬ、判然と条件を云うて貰おう、そんな家来は禍をなすものだ。
 
メフィスト  私は此の世で貴君の家来たるを誓い、決して惰(なま)けたり休んだりして、貴君の 命に背く様な事はしません、それで若し我等両人があの世へ行った時は、私が此世で 貴君に尽したと同様な務をして貰いたいのです。
 
ファウスト  俺は彼の世などは一向に気に掛けない、若し君が此の世の世界を微塵に打砕いても 立ち処に他の世界は現われてくるのだ、凡て愉快は此の世から湧く、この世を照す太陽 は僕の苦痛をる照すのだ、若し僕が此の世界、此の太陽から縁を絶つ事が出来るとすれば、 其後は何事が起ろうとも、一向関する処でない、俺は人間が来世に於ても、尚お此世と 同様に憎んだり愛したり、快楽にも苦痛にも、夫々程度があるとか、貴賎上下の差別が あるとか、そんな事は最早(もう)聞きたくないのだ。
 
メフィスト  結構な御考です、誓約なさい、そうすれば急ぐ凡てが愉快になります、私は稀有なる 奇術を心得て居りますから、人間の未だ嘗つて見た事のないものを御目に懸けましょう。
 
ファウスト  其方(きさま)が何を与え得るか、笑止千万な、人間の心は向上の極致に達すると、 汝の様な悪魔が到底推察する事の出来ぬものだぞ、さあ、大言を吐くなら幾程食っても 飽かない美味を持って来い、水銀の様に手の中からすぐ逃げ去る赤い黄金はあるか、 勝つ事も負ける事もない賭博を見せろ、どうだ、一人を愛しながら隣人に秋波を送る と云う浮気娘か、流星の様に消え失せる名誉の喜び位ならいざ知らず、摘み取ろうと すると直ぐ朽る奇麗な果実とか、日毎日毎に芽を出して花を咲かせる木と云う様なもの はとても出せまい。
 
メフィスト  そんな事なら別段困りはしない、何でも御望み通りのものを差上げましょう、夫れは そうと、先生御互に緩っくり味う時期が到来しますよ。
 
 ファウスト  若し俺が安閑として、閑逸の褥に横わる様な事があったなら、其の時を以て俺の最後 の日としよう、若し其方(きさま)が僕を満足させる様に、甘く欺き首尾く興に入れる 事ができたなら、其の時を以て僕の最後の日としよう、是丈けは賭けてもいゝぞ。
 
メフィスト  宜しい。

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