GLN町井正路訳「ファウスト」

第四場 書斎

 ファウストは例の如く書斎に独り書見をして居る。
 
ファウスト  戸を叩くのは誰だ、入り給え、俺をまた困らすのは誰だろう。
 
メフィスト  私です。
 
ファウスト  入り給え。
 
メフィスト  三度そう云うてください。
 
ファウスト  では「入り給え。」
 
メフィスト  それで十分です、難有う、吾々は御互に胸襟を開いて提携したいものです、まず 貴君(あなた)の妄想を追い払わんため、僕は若い貴公子となって、赤い金レースの 衣服に、硬い絹の小さな上衣を着て、雄鳥の羽の帽子を被り、長い鋭い剣を佩いて、 茲処に来たのです、簡単に申しますが、貴君も私も同じ服装をして貰いましょう、 そうすると心に何の拘泥(かゝわ)りもなく人生の如何なるものであるかが能く分り ます。
 
ファウスト  どんな扮装(みなり)をしても、俺は狭苦しい此の世の生活の苦痛を脱する事は 出来ん、俺は凡ての慾望を棄てゝ、此の侭終る程老耄はせぬつもりだが、花に狂う蝴蝶 の様に、遊び廻るにはちと年が寄(と)り過ぎたよ、此の世は俺に何物をも与えはせぬ、 過去から将来まで永久に謡われる「自ら制し自ら忍ばざるべからず」と云う歌は、 吾々の一生涯、時々刻々声を嗄らして人間の耳を刺激して居るではないか、俺は毎朝 恐怖の念を以て目醒め、日を見ると苦い涙を流して泣きたくなる、太陽が一日の進行中 に、何一つ俺の慾望を充たしてくれない、嗚呼只一つの慾望さえ充たしてくれないのだ、 片意地に快楽の予想さえ滅して了う、自分の”活発”な胸中の想像も幾多人生の若き実在 に、全く勢を失って、夜が来ると再び寝室の上に悒々として横わるのだ、併し何の安息 も得られない、只恐ろしい夢に悩まされる許りだ、自分の胸裡には、精神と云う神が 住んで居て心の奥まで励まし、自分の有らゆる能力を支配して居るが、外界の事物には 何等の勢力もないのだ、夫(それ)だから僕には現在の生存が非常に重く、熟々人生が 厭になって死ぬ方が増(まし)だと思うよ。
 
メフィスト  併し、死は歓迎すべきものではありません。
 
ファウスト  赫々たる勝利を博した時、血に染まった月桂冠を、死の神から被らして貰う人は実に 幸福な人だ、供覧踏舞の後で、真の恋人の腕に靠れて、静かに死に行く人は実に幸福な 人だ、あゝ、俺もあの時精霊の一部となり、偉大な霊の威力の前に溶けて、永久此世を 去ればよかった。
 
メフィスト  乍併、或る晩さる御方が、褐色の液体を飲む勇気がありませんでしたね。
 
ファウスト  探偵は君の御得意と見えるね。
 
 メフィスト  私は全智ではありませんが、しかし随分解る事もあります。
 
ファウスト  あの時は耳馴れた美妙な音楽が、恐ろしい考から自分を引とめて、幸福な頃の反響を 以て、幼児の懐かしい感情の記憶を呼び起したのだが、今となっては、色々な誘惑的 奇術を以て精神に纏わり、燦然として眼を迷わせ、阿諛(おもね)る様な力で、我が 精神を此の黯澹たる憂鬱な穴に繋ぎとめる、凡てのものを呪わなければならぬ、先ず 第一に精神を擒(とりこ)にする名誉の観念、眩耀たる光を以て吾人の感覚を迷わす 外観、偽善的夢想、光栄の夢、不朽の名を以てする誘惑等は呪うべしである、又財産や、 妻子や、奴隷や農具等の吾人に媚を呈するものは呪うべしだ、又財宝を以て大胆な事業 に人間を鼓舞し、呑気な快楽に耽らしめん為に、柔かな床を供える福神マンモンも呪う べしだ、それ許りでない、あの葡萄の芳液、恋愛の最大快楽、希望、信仰、就中忍耐は 大に呪うべしである。

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