ファウスト、尨犬(むくいぬ)と共に入り来る。 ファウスト 自分は山野平原を後にして帰って来たが、最早や何処も深い夜の幕に包まれて了った、 吾が善良な霊魂は、夜の厳(おごそ)かな威厳に打たれて、愕然として目覚め、乱れた 思想と、狂躁な挙動は茫然として眠り、人間を愛する情と、神を敬う念とが自ら心中に 燃えて来た。 こら尨、静粛にして居れ、そう駆け廻るな、何故そんなに敷居を嗅ぐんだ、暖炉の 後に横になるがよい、俺の敷物が其処にあるから貸してやる、山路で吾々を慰めて 呉れたから、今度は珍客として優待しよう。 此の狭い房間(へや)にやさしい燈火が輝くと、懐疑や恐怖などは雲散霧消し、 理性は再び活動し、希望は輝き、熱心に生命の流を探り、遠く隠れて居る源を尋ね ようと思う元気が湧いてきた。 こら尨、唸ってくれるな、お前の声は今吾が全心を占めて居る神聖な響と不調和で 可けぬ、自分で解決の出来ない事を嘲ったり、又善美なものを罵って騒ぎ立てるのは、 俗人の習性(ならわし)だが、御前も矢張り爾うなのだろう。 あゝ、幾程願っても、自分の胸から最早や満足が湧いて来ないと云う事は悟って居る、 けれど満足は何故そんなに急に涸れて了うのだろう、そうして何故自分はまた渇かねば ならぬのだろう、これに就いては、是迄度々苦しむ経験を重ねたのだから、必ず酬い られるに相違ない、我々は超自然を尊び、天啓を渇望して居る、而して此の天啓が最も 流麗荘厳に現われて居るのは、新約全書以外にはない、爾(そう)だ俺は神聖な原書を 繙き、誠実に我が愛する独乙語に訳して見よう。 渠(かれ)聖書の一冊を繙き翻訳の準備にとりかゝる。 えゝと最初に斯様書いてある、「太初(はじめ)に言語ありき」、是丈で早や行き つまった、あゝ、誰か助けてくれ、僕は何うしても言語をそんなに貴いものとは思わない、 若し僕が神霊の力に励まされて居るなら、何とか別に訳さねばならぬ、えゝと「太初に 知覚ありき」、いや、こんなに筆を走らしてはいけない、能く初めの一行を考えて見よう、 万物を胚胎し産出するのは果して知覚だろうか、いや一層こうしよう、「太初に勢あり き」、こう書いて居る間も、何だか改めなけれりゃなるまいと忠告するものが在る様に 感ずる、や、神霊が救いに来た、さあ道が開いたぞ、確信して書き下そう、「太初に 行為ありき」。 こら尨、其方は俺と一緒に此処に居る心算(つもり)なら唸るな、吠えては不可 (いけな)い、俺は身辺(そば)にそんな煩(うる)さい伴侶(とも)の居るのは 閉口だ、俺か其方(きさま)かゞ此の房間を去らねばならぬ、止を得ぬから賓客の 権利を奪うぞ、さあ、戸を開けるから出て行け、併し待てよ、実に不思議だ、自分の 見て居るのは現実であろうか、ヤ、ヤ、こりゃ自然界にあり得べき事か、尨めが 段々長く大きくなって来た、なに、こりゃ大変だ、俺は妖怪を家に連れ込んだのだ、 彼は既に火の眼、剣の牙を現わして、濤馬(?)の姿と化した、まて正体が分った、 斯る地獄の妖怪にはソロモンの呪文が宜い。 |
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