GLN町井正路訳「ファウスト」

第一場 夜

 円頂格になって居る狭いゴシック風の室。ファウスト、 不安の態に机に凭りかゝって居る。
 
ファウスト  あゝ僕は非常な勉強をして哲学、法学、医学、夫れに悲哉神学迄も学び尽くした。 然るに昔日と些も変る事なく一個の浅薄な漢子 となって茲処に居るのだ、僕は先生(まじすてる)と呼ばれ、博士(どくとる)と称え られて殆んど十年、縦横自在に学生を鼻で待遇って来た、しかし僕は果して何を知って 居るだろう、思えば業(ごう)が煮える、実際僕は博士とか先生とか、学者とか牧師とか 云われて居る世の賢人連よりは怜悧(れいり)だ、俺を困らせる様な疑惑も無い、俺は 地獄をも悪魔をも恐れない、併し俺は其の為に一切の幸福を喪ったのだ、俺の知っていもの、 又知っていると思ったものは考えれば皆偽りで、無意味の様に思われる、自分が若い 時人間を教訓し、進歩発達せしめてやろうとした空想や希望は何処へか消えて了うた、 さて学問と云う唯一の楽みが奪われた上に、田地もなければ地位も財損も財宝もない俺だ、 此世の快楽が絶無となっては犬でさえ生存を願うまい、だから俺は一切他の方便を退け、 独り妖精の力と口とを藉りて、是迄自分に解らぬ真理や、人間から隠れて居る神秘を 探るのだ、最早内心恥を包みながら、解らぬ事迄も苦しい汗を流して説法する事の無い 様に、精励刻苦して魔術に一身を委ねたのだ、要は万物内部の諸勢力を結合する力を認め、 其の活力と胚種とを鑑識するにある、最早虚空の言語を商売する時でない。
 
 あゝ玲瓏たる月よ、願くは僕の哀みを照すのは之れを最後として呉れ、僕は此の机に凭り ながら幾度か夜更けてお前を眺めた、其時は何時でも僕の書籍や文書を照して呉れた、 お前は真実僕の陰鬱の友である、あゝ、僕はお前の愛らしい光に乗り移って山テン (いただき)を徘徊して見たい、山中の洞穴で妖精と共に戯れて見たい、 あの淡き光に包まれて野面を飛んで見たい、煩(うる)さい学問の濃霧を脱して、 月光の露を浴びて見たいものだ。
 
 あゝ俺は如斯な忌々しい、汚穢(むさくろ)しい牢獄の中に閉じ籠められて居るのだ、 画硝子を通して輝く天の光さえ、紙魚に蝕れ塵に塗れ、而も煤けた紙張りの天井迄 積み上げた書籍に妨げられて、朦朧として曇って居る、夫に鏡や箱などが周辺を囲み、 機械は一面に積み上げられ、先祖代々の家財が矢鱈に詰め込んである、これが俺の世界だ、 あゝ何と云う世界だろう。
 
 えゝ、なぜ俺の心は胸中忍ぶべからざる痛みを感じた時、之に抵抗する事が出来ぬのだろう、 何故不可解の苦痛が、有ゆる生命の活動を妨げるのだろう、神が人間に生活せよと云うて 作って呉れた活天地の代りに、俺の身辺には煙と塵に塗れた動物の骸骨や、死人の髑髏 があるのみだ。
 
 さあ、大に心を励まして、広大無辺の世界に往こう、ノストラダムス師の自ら著した這(こ) の一巻が何よりの嚮導(きょうどう)だ、這の書に頼れば、星辰の道を明らめ得る事が 出来る、而して自然が其の妙理を示してくれるなら、心の力が増して、恰も神霊と神霊とが 相談する様に、自然の真義を悟ることができるだろう、此等幽玄神聖の付号を記してある 尊い一巻を、ボウ然(ぼんやり)みつめて居た処が何の利益もない、いざ繙いて 見よう、余が傍に徘徊して居る汝等妖精よ、近づいて我が言う処を聞き、我が問に答え てくれ。
 
 渠(かれ)一巻を繙いて宇宙の記号を瞻めた。

[次へ進んで下さい] [バック] [前画面へ戻る]