詩人
何卒君去って呉れ、去って君に従順な他の詩人を索めてくれ、苟も詩人たる者が、
天の付与し給うた最高の権利、即ち人権を罪深くも君等の為に抛つ事が出来るものか、
詩人が人心を感動させるものには、果してかゝる卑劣なものであろうか、鬼神を
泣かしめ天地を動かすものは果して何だろう、あの胸奥より湧き出でゝ再び世界を
胸中に引き入るゝ其の調和ではあるまいか、其の諧鳴ではあるまいか、自然が限り
ない長い糸を無頓著に紡錘(つむ)に捲き著ける時、混乱せる万物が錯雑して縺れ合う
時、人生の諧調を正して常に活発に流れる様に整理するのは誰だろう、誰が荘厳な
諧音の湧く神聖な場所に、個々を呼び入れて一大諧調とならしむるのか、誰が人間に
暴風雨の様な狂熱を起こさせ、誰が沈める精神を真紅の夕日の様に輝かさしむるか、
誰が恋人の途に美しい春の花を撒き散らし、誰が無意味の青葉を、凡ての功績の為に
名誉の桂冠に編むのだろう、誰がオリンプを守護し、誰が神々を統一せしむるのだろう、
是等一切を能くするものは、詩人として顕われた人間の力ではあるまいか。 滑稽子 だから、其の霊々妙々な力を用いてさ……、だが詩人の転職とやらも、恋路を辿る 様なものかね、ふとした事から知合になった時には、まんざら憎くはない位でも、 度重なれば自然(おのず)と深くなる、何事も意の如くになるかと思うと、浮世は まゝならぬと来る、羨ましくって堪らない、御後が涙で目をはらすとくる、御当人は 無我夢中だが、之だけでちゃんと一篇の小説になって居るよ、だから僕等 も一つ此の様に演戯をやろうじゃないか、先生大胆に一番願いましょう、人生の 奥底を脚色(しく)んで下さい、いや人生などゝ一口に云うけれど、実の処解る奴は 居やしません、解らぬながらも写し出して見ると興味はある、やあ之はすてきな名画 だなあと思うても、画の意味が判然せなんだり、荒唐無稽で固めた中にも一閃の真の 光が輝くと云った様な塩梅式さ、先ず此処等辺の呼吸一つで世を覚醒し、建設する 最良の霊液が醸されるんでしょう、ですが、看客は十人十色で、理由(わけ)も 解らずに感心して居る、うわうわの連中があるかと思うと、悲しい思を汲んで 自ら楽む気立の優しい者もある、又或者は此の幕、或者はあの幕から夫々思い思いに 自分の感想を汲み取って心を動かします、つまる処、泣かせるのも笑わせるのも 一に先生の任意なんだ、看客は飄揚たる処を見れば尊び、絢爛たる処を見れば歓ぶ、 既に老成した人物は仕様がないけれど、是れからと云う若い人は必然(きっと)歓び ますよ。 詩人 では僕を再び昔時に若返らしてくれ、僕の発達しつゝあった時代、詩想の泉が滾々と して湧いた其の時代、世の中が霧に蔽われ、朧に霞んでいた時代、萌した芽がこれから 何んな奇観を呈すだろうと楽んだ時代、蕾を見て花の美を想い起した其の時代、谷間に 咲き乱れた千草の花を摘んで逍遙った其の時代に返らしてくれ、あゝ思えば当時余は 何物も持たなかったが、併し何の不足も無かった、真理に憧れ幻影を追うて楽んで 居たのだ、願くば束縛のない慾、深い悲みが産んだ幸福、憎みの力、恋の力の旺盛 であった昔時に帰らしてくれ給え。 滑稽子 戦場で敵に肉迫した時か、熱情燃ゆる如き少女が貴君の頚に吊下った時か、容易に 達すべからざる決勝点から遥かに月桂冠が靡ねぐ時か、活発に狂廻った舞踏の後で一夜 を飲み明かすときならいざ知らず、貴君が目下の任務を果すに少壮の齢が要るものですが、 老先生、貴君は手馴れた琴を快活に愉快に弾じながら、自ら定って居る目標を指して 進行するのに、若者の元気を借らずとも宜いでしょう、僕等は斯る気力の有無に依て 詩人の名誉を云々する様な野暮じゃないんです、世の諺に老齢(とし)は人を小児 らしくすると云うてあるが、其の真意は、大人にして小人の心を失わずと云う事 なんでしょう。 座主 議論はもう沢山だ、夫よりか実行して貰いたい、君等が下らぬ辞儀を交わして居る 間に、有益な事がやれるじゃないか、神来の詩調は躊躇の伴侶でない、詩を作るのが 貴君の天職であるなら自在に写し出して下さい、先生は僕等の要するものを十分 御承知です、僕は強い飲料を啜りたいのだ、何卒即刻醸して貰いたい、今日着手 せぬものは明日も出来ぬのだ、一日たりとも光陰を空しく送るべきでない、 「果断」は敢然として「可能」の額髪を捉えるものです、一旦捉えたら最後決して放す 事なく益々懸命に働く、之が決断の性分です、先生も御承知の通り、我が独乙の舞台 では、人皆思う通り腕を揮って居るのだから、背景(かきわり)や道具(どうぐ) などを吝んじゃ不可ません、空に輝く大小の燈火は云うに及ばず、星なぞは幾許でも 貴君の任意に御使用なさい、否(いな)、水でも火でも、岩でも禽獣でも事欠くことは ありません、此の狭小(せま)い劇場の裡に造化の万象を示し、上は天堂より人界を 経て、下地獄に至る迄を看客の眼前に列べて貰いたいです。 |
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