GLN町井正路訳「ファウスト」

述懐

亡き友の、霊魂(たま)現はれつ、
ありし世の、その面影を、
おぼろげに、我にぞしめす、
我は夫(そ)を、ヒシと捉へむ。
其の往時(むかし)、思ひぞ出づる、
幻影(まぼろし)も、ゆかしや胸裡(むね)に、
消えはせて、弥群れ集ふ、
いと深き、細霧(さぎり)のなかを、
疾く出でゝ、汝(な)が領(もの)統(す)べよ。
立ちこむる、霊風清し、
我が胸の、血汐若やぎ、
いや躍る、心うれしさ。
 
過ぎし世を、霊魂(みたま)は語る、
睦ましく、交らひにける、
青春の、楽しき壮時(むかし)。
今はたゞ、朦朧(おぼろ)げに見る、
往時(そのかみ)の、めでたき姿。
惨(いた)ましく、また憂(う)かりける、
初恋の、ふかき思ひ出。
人生(ひとのよ)の、迷惑(まどひ)の宮に、
好運の、犠牲(にえ)とぞなりて、
我(あ)を棄てし、浅ましの女(ひと)、
あゝ、失恋の心の苦悶(なやみ)、
それもたゞ、残る口碑か。
 
我が詩(うた)に、情意(こゝろ)をやりし、
友は見ず、我が爾後(のち)の詩(うた)。
あゝ、当年(むかし)我が詩(うた)を愛でぬる、
友等(ともどち)は、はやくも逝きぬ。
面(おも)知らぬ、外国人の、
我が詩(うた)を、愛で唱ふ時、
人々の、称賛言(たゝえこと)きく。
我が胸の、いや悲しさよ。
往時(むかし)我が、詩(うた)をよろこび、
迎へぬる、親しき友の、
残れるも、無きにあらねど、
夫等さへ、今は、西、東。
 
凝る胸の、憶ひは深し、
いでや我、尊(たか)く静けき、
霊界の、団居(まどひ)に入りて、
我が友の、辺りに行かん。
唇辺(くちのへ)をさまよひめぐる、
我が詩は、彼のエオリヤの、
琴のごと、調とゝのはず。
いや落つる、涙の雨に、
心消え、身も戦慄(わなな)かる。
己が手に、いま持てるもの、
早や去りて、彼方にほの見え、
失せにしもの、今こゝにあり。

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