GLN町井正路訳「ファウスト」

「ファウスト」解題

 斯様いう時代に於て、ファウストは従来の人士が呼吸したよりも、更に大なる 世界の空気を呼吸したのは云う迄も無いのであるが、其の幼時には、勿論思慮も 乏しく、且つ柔順な性質であったから、家族の勤むるまにまに、僧侶になろう と云うので神学を研究し、後其の学位を得て、礼拝堂に一光彩を添える年若い 学者となった、けれども彼は礼拝堂を飾る一員として終る可き人では無かった、 彼は既に神学の奥義を窮め、エデンの園に植えられたる木の実は、一として之を 味わざるもの無きの境に達したので、やがて百花爛漫たる世俗の誘惑的花園に 彷徨い入った、かくて彼は理学の樹木の美花に魂を奪われ、爾後一意専心力を 天文物理化学等の学術に尽し、大に得る処あるに至るや、神学の書は悉く之を 抛棄して顧みず、益々科学の研究に耽り、其の結果遂に人間の能力を重視し、 「自然の秘密を知る、極めて易々たり」と信ずるようになった、勿論彼は物語の 伝うる如く、不可思議の能力を有した者では無かった、唯当時の人民が蒙昧 であって、科学の何たるを知ら無かったが為めに、彼の所業に驚愕した丈けである、 葡萄を用いないで葡萄酒を醸造したことは、正にファウストの奇蹟であるが、 今日に於ては何等珍しいことでは無い、又現に今日と雖も、尚お物理の応用によれる 所謂魔術の興行が行われる事実に就て見たならば、其の当時彼が自分の能力を 過信して神力ありと為した如きは、無理からぬことであろうと思わるゝ。
 
 ファウストが魔術家として悲惨の最期を遂げた事実に就て、人皆自己の知識で 判断して、これ彼が神に反ける報であると云うが、焉んぞ知らん、其の実彼は 化学の実験に失敗し、瓦斯の爆発の為めに惨死したものであろうとは、又彼(か)の アンハルトの朝廷で、厳冬なお夏季の果実を献じたことの如き、これ又彼の一奇蹟 と称せられるのであるが、当時多数人士の知らない熱帯地方の植物が其処に植えられて あったのを取り、これに人工的加温の法を応用して果実を結ばしめたものであろう、 植物学の知識皆無の当時、これを見て驚いたのは、さもある可きことである。
 
 ヘレナという婦人の名は、古くから物語に見える処で、此の名はトロイ戦争の際、 国王に勧めて市に放火せしめた美人の名であるから、読者に一種の恐怖と美の観念とを 同時に喚起せしめんが為めに作者が襲用したものでもあろうし、又文芸復興の際 希臘当時の美術文学を憧憬し、之を歓迎するの意を寓せしめたものであろう。

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