二、物語に対する批評 凡そ物語や伝記に避く可からざるもの三つある、一、凡ての物語はその根底に於て 必ず歴史的事実を有すること、二、時代を経過して伝唱せらるゝ間に、無意識の中に 多少変化すること、三、字句を修飾し且つ思想を変更するの傾向あることの三が 即ちそれで、後世の物語を議する者、動もすれば其の事の有無を疑うに至るのは、 皆上述の理由に依らざる無しである。 「ファウスト物語」に於ても亦然りで、詩人にして「ファウスト物語」を一読した 者は、之れに自己の詩的観察を下した丈けで資料に供するから、勿論原物語の趣旨を 失うには至らないが、神学者はそうでは無い、乃ち彼等は自己の本領たる神学本位で、 時代の傾向を嬌めようとして一に其の内容を教訓的に変更するが為めに、原作の真相は 何れへか逸せられて了う、で前記ヨハネス、スパイスの物語は、自ら信頼す可き稀有 の資料に依ったことを揚言して居るけれども、要するにこれ又、単に「彼」の物語たるを 免れないので、と云うのは、勿論彼は其の揚言せる如く、精選した資料で真面目に 筆を執ったであろう、が併し其の資料は、彼の立場からして、彼の「意志」の下に塩梅 せられ、解釈せられたこと、蓋し疑を容れないのである。 更に推想するに、ヨハネス、スパイスと云うのは、恐らくは出版者の名に過ぎない であろう、前記フランクフルトの物語はスパイスなる人に依て記(か)かれた ものではあるまい、と云って其の実際の著者は何人であるか、尚お未だ不明ではあるが、 恐らく宗教改革者ルーテルなどの徒であろう、夫れ若し明かに署名して 「ファウスト物語」を公刊すれば、獄に投ぜらるゝの恐れがある処から、匿名或は変名 したものではあるまいか、実際其の書に依て見ると、羅馬(ローマ)教に対して痛く嫌悪 の念を抱いて居るものゝ如く、又実際に悪魔なる者が在って、人を迷わし、人の生涯を して不神聖ならしめ、遂に永遠こ済う可からざるものたらしめるということを 確信して居るものゝようである。 |
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