「ファウスト」解題
(一)第四世紀の頃、無名で著わされた一の物語があった、それは「シプリア人と
一処女」と題して羅甸(ラテン)語で記(か)かれたものであったが、中世紀の
頃になって、到る処の読書子の愛読を受けたのである。で、試みに其の内容の梗概
を挙げると斯様だ。
アンチオクという邑に一人の仙人があって、魔術に長けて居るので有名であった、
時に青年アグリタスなる者があって、耶蘇教信者の一処女ジャスチナなる者に
恋慕し種々(いろいろ)な手段で切なる胸の思いを訴えたのであるが、意志の鞏固な
ジャスチナは毫も之れに動かされない、そこで思い迫った青年は、馳せて仙人の許に
到り、魔法の伝授を請い得ての帰り路、覚えたばかりの術で二個(ふたり)の悪魔を
呪い出し、共に協力して処女を落そうとしたが、精進堅固なジャスチナは、十字の
記号を画して敢て悪魔を近かしめない、悶えに堪えぬ青年は、更に地獄の王を
煩わしたのであったが、それも矢張り無効であった、失望した青年は、不満の余り
不成功の理由を詰問すると、悪魔は「地獄の王に服従すれば必ず希望を達することが
出来る」と云う、そこで種々な条件の下に契約を結んで、魔王の臣下になったが、
やがて悪魔が十字記号を恐るゝこと甚だしく、少女が画する記号の力は、魔王の魔力も
用ゆる余地が無いと云うことが判ったので、青年は到底自己の目的が達し難いことを
知って、転じて耶蘇教に従うことになった、悪魔達は為めに大に彼の変心を怒ったので
あったが、彼は平然として、自ら十字記号を画して悪魔を走らせ、遂に洗礼を受けて、
処女と共に神の教の下に苦業するに到った、と云う。