GLN町井正路訳「ファウスト」


 自分は文学者では無い、世の所謂文士では勿論無い、又所謂翻訳家でも 無いのである。それが − 全然文学には門外漢たる自分が、敢て自ら 揣(はか)らずしてこの「ファウスト」を訳出するの挙に出でたる、無謀 と云おうか、大胆と云おうか、「盲蛇」の譏(そし)りは固より自分が 甘受する処であるが、併し勿論自分丈けの抱負はあるのである。
 
「吾人は人間生存の秘訣を解決するの能力を欠いて居る、否、生れながらにして 之れ等の能力を附与せられぬのである、が併し、附与せられざるの故を以て之を 抛棄して顧みないのは誤れるの太だしきものと云わねばならぬ、乃ち少くとも 既知界と未知界との限界丈けにても測量探検す可く、常に努力するの必要が あるのである」。
 
 然らば其の「測量探検」は、如何なる方法に依て之を為す可きか、 それがまた問題である、が、少くとも自分丈けでは解決できようと思う問題である、 乃ち自分は其の覚束無き解決の指示する処に従って行動せんと欲したので、 書に依るの研鑽も其の一であるのだ。
 
 然れども、吾人の精力には固より限りがある、此の限りある力を以て、所謂 汗牛充棟(かんぎゅうじゅうとう)の天下の書を − 単に読過するのみにても 到底不可能である、随って茲に良書選択の必要が生ずる、併し、其の選択した 良書中の良書でさえも − 自分等の如き者では − 尚お完全に読破することは 出来まい、勿論「書籍は決して永久人間の渇を医す可き根本では無いのだ」。
 
 何れにしても自分が良書を渇望したのは事実で、あわれ会心の書に対って、 心ゆくばかり読み耽りたいとは少年時代よりの念願であった、併し文学に志したのでは 無い又現に文学者では無いのである。

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