私の神道「スイッチ」

スイッチ2

「或る人問う」
 次は、前記A誰かからのサインで、スイッチの切り替えをする場合……。
 
「我は想う」
 うむ。スイッチに関しては、自立して行動出来る人は、前述のとおりであるが、 歩行がままならない人達はどうしたら良いであろうか。
 例えば目覚めている今、眼の方向なり、顔の方向なりが、静止している情景に 相対してばかりいるとき、それは、眠っているときと同じことなので、大きなストレスを 体感することになる。
 
「或る人問う」
 扇風機を回して人工的に「風」を体験させたり、テレビを点けっぱなしにしたり、 関係者が時折声を掛けたりと、疑似体験で我慢することになるのだが……。
 
「我は想う」
 そのような疑似体験 − 外気へ触れることに関して − 前記「気について」の項参照 − 、 そのような疑似体験を繰り返して、ヒトは老いてゆくのだろうか。
 
「或る人問う」
 ええっ……。
 
 やがて、スイッチの切り替えも……、スイッチが入っていることも……、 スイッチの存在すらも……。
 
「我は想う」
 ヒトは、老いのことを自覚するにしたがって、死後観を考えるようになるのだろう。
 
「或る人問う」
 そんなとき、次のように分類して考えることも出来る……。
@暦などの補助的手段によって、自力で切り替えの出来る。
Aそのようなことでも、切り替えすることが出来ないほどに衰えてきた……。
B又は、孤児として一生を送ってきたなど、故国も故郷も、また肉親までも 判明しない……。
 
「我は想う」
 ……。
 
「或る人問う」
 そんな事例での(死後観に関しての)選択肢として、
@の例では、故郷の山に留まって、子孫や子弟達を優しく見守ってやりたい……。
Aの例では、それぞれの経験上、特技であったり、興味を惹かれたりしたことなどを 主宰する神(八百万の神々のうち)の化身となって、下界の人間達を導いてやりたい……。
Bの例では、天国(極楽とも、浄土とも、神の国とも)へ行って、神(仏)の庇護のもとに、 やすらかなに生き続ける……、しかし。
 
「我は想う」
 しかし……。
 
「或る人問う」
 ここで、再認識する必要があるのは、神道では、神前において拝礼するとき、 まず最初に、今現在までの神恩に対して感謝の言葉を申し上げることになっている。 例えば、神前に人生儀礼について奉告するときも、すべからく「冒頭で、常日頃の神恩 に対する感謝の言葉」を欠かすことはない。
 したがって、神道の許に住んでいる私共は全て、このように四六時中神様の恵みを 蒙って生きてきているので、やはり、どうしてもと云うか、是非とも、死後は、 どのような境遇の人達であっても、八百万の神様達の仲間に入られて、 よろしく後進を導いていただきたいものだと……。
 
「我は想う」
 うむうむ。

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