「或る人問う」 表裏に関しては、良薬は表、毒薬は裏と云うことだね。 「我は想う」 良薬であっても、摂取し過ぎれば人体に害を及ぼし、毒薬であっても、 少量ならば、害にはならない……。 「或る人問う」 何事も程度問題と云うことか。 つまり、良薬には有害と云う裏面、毒薬には無害と云う表の面を、それぞれ 併せ持っている、と云うことなんだね。 「我は想う」 権利義務に関しても、権利を取得してしまえば、必然的に義務を果たすべき ことが求められよう……。 「或る人問う」 義務を果たし終えると云うことは、その結果として、達成感とでも云おうか、 また満足感とでも云おうか、いわゆる至福の権利を取得することになるんだね。 「我は想う」 うむ。 「或る人問う」 表には裏、権利には義務、自由には平等、縦には横、勝者には敗者、 建設には破壊、………か。 「我は想う」 ……。 「或る人問う」 しかし、この場合、一方からは他方が見えない……。となると、自分(一方)が、 相手(他方)の反対側に廻って見るか、相手に、こっちの方を向いてもらうしかない ……。 と云うことは、自力で工夫して解決しようとするのか、他力によって 解決してもらおうと期待するか、と云うことか。 「我は想う」 そのように理解しようとするのが、三次元の考え方であろう。 「或る人問う」 そのことと、神道との関係は? 「我は想う」 それは、例えば、 (自力的には)自分と、鏡の中の自分と、鏡の中を見て行動を起そうとする自分 (他力的には)自分と、神職と、祓串による「祓え」の行為(鎮守の杜〜昇殿〜拝礼) と、このように考えれば、分りやすいと思う……。 「或る人問う」 自分(自力)が表、相手(他力)が裏と考えれば、それを補うのが、思想哲学である、 とも捉えられるんだね。 或いはまた、@自分(表)が、A目標を達成しようとする場合(裏)、B他力に 頼る、と云う構図もあり得るんだね。 「我は想う」 この場合のBに相当するのは、思想哲学がその役割を果たすであろう。 「或る人問う」 自力が主か、他力が主か……。 「我は想う」 もし自分に、自立心なり自尊心なりが多少ともある限り、つまり「自我」 を主張し得る立場あるときは、当然にして「自力」が主となろう。 「或る人問う」 神になろうと努力するのか? 「我は想う」 「人皆、神になり得る」素質を有している、機会も有している、また、 そのような考え方や期待感を全ての人は持っている……と、私は思っている。 「或る人問う」 「私は神である」なのか、「貴方は神である」なのか。 「我は想う」 そこに神と人間とのみが存在するとしたら、「貴方は神である」の方が、 より自然的であろう。何故なら、ここは人間世界なのだから。 |
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