私の神道「恩」

優しさと愛と恩

「或る人問う」
 ここで云う「恩」とは、
 ……「他の人から与えられためぐみ。いつくしみ。」……のことと理解するが。
 
「我は想う」
 うむ。
 
「或る人問う」
 ところで、平たく考えれば、「優しさ」とは、あくまでも(勝者強者側の) 心に関すること、「愛」とは、(敗者弱者側が)優しさを素直に受け容れた 結果として、心の中に醸成された美しい情景、と捉えることができるが……。
 
※「優しさ」「愛」別掲参照
 
「我は想う」
 勝者強者の立場と、敗者弱者の立場は、ときとして拮抗することもあろうし、 折り合うこともあろうし、また逆転することもあろう。
 
「或る人問う」
 と云うことは、常に「時処位」が更新を続けていることなんだね。
 
 優しさとか、愛には、心に関することとして、それの代償を求めたり(権利)、又は それを償うこと(義務)はないんだね。
 
「我は想う」
 愛しいわが子弟達に、何故にその代償を求めようぞ……!
 
「或る人問う」
 これらに対して、「恩」とは?
 
「我は想う」
 恩は、物心両面に亘ることもこともあろう。
 勝者強者側にとっては、「恩」を行使することの代償は、基本的にはそれを 求める筋合いのものではないであろう。たとえその「恩」が、敗者弱者からの求めでは あったとしても、その代償を求めることはないものと信じたい。
 
「或る人問う」
 私が思うには、恩とは、恩を受けた側が、
@「そのことは恩であった」と感じて、
A初めて「そのことに謝恩なり、報恩をしなければ……」と、
B決意することによって、実体として、また心の籠った「恩として認識」される、
のでは?
 
「我は想う」
 確かにその通りであろう。
 
「我は想う」
 でも、恩を恩だと気付かないことも……。
 
「我は想う」
 恩には、実体を伴わない、心に関することの場合もあるので、 気がつかないこともあろうが……。
 
「或る人問う」
 あっ、そうか。
 私共は、其処に居られるヒトを、
@「このヒトは、私の先祖(教師先生なども)だ」と認識すること、
A即ち先祖だと認識すれば、そこには必然的に「恩」が存在するのだ、
と云うことなんだね。
 
 私共は、先祖の遺伝子を引き継ぎ、叡智を受け継いで(押し頂いて)いるからね。
 
「我は想う」
 うむうむ。

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