私の神道「愛」

いじめと喧嘩

「或る人問う」
 森羅万象、物体が移動する場合でも云えることであるが、 生物が生存してゆく過程においては、お互いに競争し合うことになり、 そこには争い - 衝突 - が避けられない。
 ヒトの子供達が成長する過程においては、好奇心というか、自分の力量を 試したいと云うか、同程度の年齢の者同士の間では、喧嘩はよくあることであるが……。
 
「我は想う」
 喧嘩とは、甲乙二者が雌雄を決することである。ここでの勝敗は、後日、 機会(チャンス)があれば、敗者は復讐(リベンジ)したいと心に誓う。 したがって、勝者は、深追いするようなこともせず、 以後、執拗に敗者を窮地に追い込むようなこともしない。
 また喧嘩は、二者だけの出来事であるので、第三者は介入する ことをしないし、ほとんどの場合、その出来事を知らないでいる。
 
「或る人問う」
 喧嘩といじめの異なる点は、
いじめでは、
①勝者は敗者を執拗に追い回して、復讐の芽を奪い取ってしまおうとする。
②その出来事を第三者が公然として知っており、敗者に味方するどころか、 逆に勝者の側に組してしまう、と云う傾向にある。
③したがって敗者は、実力=肉体的な面においても、内心=精神的な面においても、 立ち直れないほどの痛手(ダメージ)を負うことになる。
 
「我は想う」
 うむ。
 
「或る人問う」
 例えば、あるA先生が奉職中、あるB教え子を、クラスの皆の前で、 何回か、「敗者」のような扱いをしたところ、数年を経て、クラス会に招待された A先生は、肉体的にも精神的にも逞しく成長したB教え子に、 こてんぱんに仕返しされた、との話を聞いたことがあるが……。
 
「我は想う」
 ……。
 
「或る人問う」
 そのA先生は、二度と立ち直れないほどの痛手 - 精神的な痛手と云うか、 恥辱と云うか - を負ったのであろう。
 
「我は想う」
 想像するに、難くない……。
 
「或る人問う」
 喧嘩にしろ、いじめにしろ、いつかは、何らかの形で仕返しをされるんだね。
 
「我は想う」
 うむ。
 
「或る人問う」
 この場合、その場がA先生と、B教え子の二者のみの復讐戦であったなら、 A先生の痛手は、それほどでは?
 
「我は想う」
 そうかもしれない。
 
「或る人問う」
 と云うことは、鍵を握っているのは、第三者たる観衆 - 同級生達(クラスメイト)か。
 
「我は想う」
 私共は、お互いが共存共栄してゆけて、かつ有意義な社会を築き上げてゆくためには、 第三者たる私共の日頃の心の持ち方 - 生きる上での正義観を醸成しておく必要が あろう。
 
「或る人問う」
 即ち、生きる道 - 正義の道 - なんだね。
 
「我は想う」
 この正義の道 - 道徳観 - が研ぎ澄まされて、やがて神の道の国(社会とも) へと誘われてゆくのであろう。
 
「或る人問う」
 それが「神道」か。
 
「我は想う」
 であるから、ヒトは何人足りとも、「神」になる要素を持ち合わせていない訳 ではない、と。
 
「或る人問う」
①同級生達には、日頃の正義観の醸成……。
②B教え子には、祖霊による優しい恵み……。
③そしてA先生には、喧嘩とイジメとの分別……。
 
「我は想う」
 うむ。強く要望したい……。

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