私の神道「愛」

愛すること

「或る人問う」
 「愛」とは(出典:goo 辞書)
(1)対象をかけがえのないものと認め、それに引き付けられる心の動き。また、 その気持ちの表れ。
(ア)相手をいつくしむ心。相手のために良かれと願う心。
(イ)異性に対して抱く思慕の情。恋。
(ウ)何事にもまして、大切にしたいと思う気持ち。
(2)キリスト教で、神が人類を限りなく深くいつくしむこと。
(3)〔仏〕 人や物にとらわれ、執着すること。むさぼり求めること。渇愛。
(4)他人に好ましい印象を与える容貌や振る舞い。あいそ。あいきょう。
 
「我は想う」
 ここでは、(1)のことについて考えてみようではないか。
 
「或る人問う」
 よく、「愛の代償を求めてはいけない」と耳にするが……。
 
「我は想う」
 「愛すること」について、例えて云えば、立場や環境などがいわゆる、
①「平等の関係]にあるとき - 全ての人々(全人類)とか、男女間とか - このときは、共存共栄する意味においても、 理屈なしに、それぞれがそれぞれの持つ能力の範囲(持ち場持ち場)で誠心誠意 を尽すこと。当然、そこには、代償などを求める余地はないであろう。 何故なら、自分自身もその一員だから……。
 
「或る人問う」
 お互い様、ってことなんだね。理屈なしだね。
 愛するとは、誠心誠意かぁ……。
 
「我は想う」
②「優劣が定まっている」とき、 - 優位にある人は、「ヤサシサ」を以って、劣位にある人達にお手伝いをすること…… (前掲「いじめ」参照)。
 
「或る人問う」
 これも、代償を云々する次元のことではないね。
 愛は、優しさかぁ……。
 
「我は想う」
 「ヤサシサ」に相対することとして、「素直(な心)=スナオサ」があろう。
 
「或る人問う」
 スナオサとは、勝者強者によるヤサシサを素直に受け容れると云う、 敗者弱者側の素直な心だね。
 
「我は想う」
 ヤサシサとスナオサとの相乗効果と云うか、醸成された結果(=成果)と云うか……、
が、「愛である」と考ええられよう。
 
「或る人問う」  ヤサシサとスナオサと愛の三重唱=三元論と云うことだね。
 
「我は想う」
 正に三元論の成就であろう。

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