「或る人問う」 イジメの現場とは、次の三者が立ち会っていることが必須条件となる。 ①イジメる人(側)、1人又はそれ以上の多人数 ②イジメられる人(側)、1人又はごく少人数 ③その傍観者と云うか、検証者と云うか、審判員と云うか、あるいは観衆と云うか、 野次馬と云うか……、1人以上の第三者 もしその現場に、①と②しか居合わせないとしたら、それは単なる喧嘩で、 アッと云う間に勝負がつき、敗者はその場を去ってゆくのみ - 復習の機会を頭に描きつつ……。 「我は想う」 ……。 ところが、イジメとなると、最初から勝敗がついているにも拘わらず、 イジメる人は、第三者の喝采を得ようと、何回も何回も懸命に陰湿な行為を 繰り返すこととなる。 この場合、第三者は現場にいないこともあるが、終始イジメる側の背後にいて、 イジメる側を牛耳っている。 「或る人問う」 したがって、牛耳っている第三者は、イジメる側の、 支配者でもあり、あこがれの人でもあり、崇拝者でもあるのだね。 一方では、往々にしてイジメられる人にとっても、第三者は支配者でもあり、 あこがれの人でもあり、崇拝者でもあるのだね。その第三者が、 何等、イジメられている人をヤサシク見守ってくれない - そのように、イジメられている人は認識しているところに、この問題の 奥深さがある……。 「我は想う」 何度でも云う、第三者は、「敗者弱者の自尊心を傷つけてはならない」。 もし、自尊心を傷つけたら、最早立ち直ることは難しい局面となろう。暫くは、又は 生涯、夢遊病者のように、はたまた人間不信の生活を送り続けることになろう……。 「或る人問う」 イジメの事実が公になって、一旦は解決したかにみえてとしても、 以上の構図が続いている限り、イジメ現象は消滅したとは言えない……。 「我は想う」 私は願う、第三者の中に、裏切りをする勇者の出現を!!! ※別掲「更新(脱皮・表裏一体・現状打破)」の項参照 「或る人問う」 ……。 「我は想う」 敗者弱者であればあるほど、その内面を暴露したくないものである。 何故なら私共は、生来、習慣的に「自己完結」を指向して育てられてきているから。 「或る人問う」 たとえ相手が神様(わが日本の神々のこと、また同じく仏も含む)であったとしても、 自分の秘密を告げることもしないし、神様の方でもそれを知ろうとしない (この点は、唯一絶対神を旨とする一神教の構図とは、基本的に異なろう)。 自分の内面を多少なりとも知っていると云うか、理解していると云うか、 味方になってくれると云うか、そう云う人は、自分と長い間生活を 共にしてきた肉親(また配偶者、また先祖達も)しかいないのではないだろうか。 「我は想う」 であるから、私共は、「死後にも、有意義に生きている」ことが必要があり、 そのような死後観を……。 |
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