私の神道「愛」

いじめと優しさ

「或る人問う」
 運動競技でも、勝つための必須要件は、相手の「弱いところ」を攻めることにある。
 お嬢さん達に絶大な人気のあるテニスを見れば、そのことがよく分るね。
 敗者は、自分の弱点を突かれ、コートの上に七転八倒し、なお涙の汗をかきながら、 試合場の片隅からションボリと消えるのみである、か……。
 正に、イジメの現場……?
 
「我は想う」
 ところで、よく「○○の前では、人は皆平等である」と云う考え方がある。
 
「或る人問う」
 ○○に当てはまる言葉として、神とか、国家とは、人権とか、食卓とか、幸福を得る 権利とか……。
 
「我は想う」
 この世で注目を浴びる標語 - 主張や目標 - 、その標語が意図するところの 精神(趣旨)を達成することが困難であればあるほど、その標語は、 注目を浴びることになろう。
 
「或る人問う」
 民主主義とか、自由とかもそうだね。
 これらは、永遠に達成され得ないものなのであろうか。
 
「我は想う」
 現実的課題として、あるいは思想哲学として、これらの標語を解決する方策は、 今のところ見当たらないでは……?!。
 
「或る人問う」
 なるほど、そうなのか。
 でも……。
 だから、世界宗教などでは、死後の世界 - 理想郷 - を創出して、そこへ人々を 導こうとするんだね。
 
「我は想う」
 ここで、「時処位」のことを思い出していただきたい。
時処位に想う
 
「或る人問う」
 しかし、これでは、人は生まれながらにして、「固定」されてしまう、 と云うのでは……、……。
 やはり、神道でも、死後は理想郷へ逃避してしまうのであろうか……。
 
「我は想う」
 ここでまた、「ヤサシサ」のことを思い出していただこう。
 もし、例えば、その親友達の集団を、誰かがヤサシク見守っていてくれている、 としたら、どうであろうか。
 
「或る人問う」
 誰かがとは、誰のこと……。
 
「我は想う」
 誰かとは、親友達の身近な人、つまり先祖達であるとすることが出来る。
 
「或る人問う」
 先祖達には、教師先生とか、指導者達も含まれるんだね。
 
「我は想う」
 先祖達は、自らが死後のことを願望することによって、又は遺された子弟達 の求めに応じて、私共のすぐ近くの山など居て、何時も私共をヤサシク 見守っておられる……。
先祖霊考
 
「或る人問う」
 親友達の中には、孤児もいるかもしれない……。
 
「我は想う」
 たとえ孤児であったとしても、自らが、何時か、或いは将来、「ヤサシサ」を 行使出来る立場の到来することを信じていれば……。
 
「或る人問う」
 そのような考え方(=思想哲学)を構築して、普及してゆくことなのだね。
 ……。
 なるほど。私共は、死後にも重要な任務を帯びていると云うか、死後も有意義に 生きている?と云うことなのか。
 
「我は想う」
 うむうむ。死後も生きている、か。

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