私の神道「愛」

いじめられ役

「或る人問う」
 「いじめる(苛める)」ことに対比されるのが、「やさしい(優しい)」ことで あると思うが……。
 
「我は想う」
 いじめも優しいも、勝者強者による敗者弱者への対応(施し)の一形態と考え得る。
 人の内面にヤサシサ(イタワリも)の心が芽生えるのは - 私は、その人が自由と云おうか、 何事にも拘束されていない状態とでも云おうか、そんなときに芽生え、 行動を起させようとする - のではないかと想っている。
 
「或る人問う」
 イジメの場合は、苛める側において、何らかの緊張下に置かれてい場合とか、 支配下に置かれている場合、往々にしてイジメ現象がみられる、と云うことか……
 
「我は想う」
 ヤサシサもイジメも、広く公開されることを好まない行為であろう。
 
「或る人問う」
 だからイジメる側も、イジメられる側も口外しないが故に、なかなか現状 を把握することが難しいんだね。
 内面的なもの、自尊心に関わることだからだね。イジメられたことを口外する と云うことは、自らの人生の敗北を宣言したことになるんだね。
 
「我は想う」
 今、イジメ現象を端的に「鑑賞」出来るのが、テレビの漫才……。
 
「或る人問う」
 エエッ……。
 
「我は想う」
 もし、あなたが属する親友達の間で、漫才のような行為があったら、どうする……。 ブタレ役に徹し得られるだろうか……。
 
「或る人問う」
 ……。
 
「我は想う」
 ……。
 
「或る人問う」
 テレビ漫才では、ブタレることで、観衆からの笑いと賞賛、そして報酬が得られる からなんだね。
 そうだったら、親友達の中の誰かが、ブタレ役を演じれば……。
 
「我は想う」
 私共はこの世に生を受けて以来、両親からは立派に成長し、世に出たら成功する ようにと期待されて育てられ、学校では徹底的に「平等主義」のことを教え込まれている。
 どうして、ブタレ役を演じられようか……。
 
「或る人問う」
 自然界においては、ある種がその自然界に生き残ってゆくために、雄同士、また雌同士、 種族間同士での争いが必須条件である。生きると云うことは、争うこと……。
 
「我は想う」
 争いとは、強者同士の争いを意味しない。特に頭脳の発達したヒトにおいては、 強者同士はなかなか争わない。
 強者(相手)から狙われるのは、弱者(弱点)であり、 争いで敗れるのは、弱者の方である。

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