「或る人問う」 信者間で争いが生じたときは、教祖の言動を持ち出すことで、その争いは 収まる。「宗派の争い釈迦の恥」と。 つまり、その信者達は、教祖に絶対的に帰依しているからである。 お経、聖書(旧約・新約)、コーランなどは、長い間人々の間に浸透してきた − 先入観的な − 教義経典である。故に、それぞれの信者達にとっては、 それぞれの教義経典は、絶対的なものとして取扱われている。 ところで、神道には教義経典がない、とされているので、人々をして、 いかに神道のことを理解させようとするのか。 ※神道とは 「我は想う」 どんな拙い著作でも、出来るだけ多くの人々に接してもらわないと、 浮かばれないから……か。 「或る人問う」 ……? 「我は想う」 ところで、先に、神前にお参りすることで、「不可思議な世界」へ突入する、 と記したが、神社にお参りすることで、先入観が消滅して、神道観に変ってしまう、 と云うことではない。 「或る人問う」 では、どうして……。 「我は想う」 神社にお参りすることで、 @新たなと云うか、更なると云うか、溌溂とした気=元気(英気とも、鋭気とも)を、 A戴くと云うか、付与されてしまうと云うか、認識させてもらうと云うか……、 にあると想う。 「或る人問う」 即ち、今までの先入観をそのままにして、それよりも更に偉大な、強力な元気を戴く、 と云うことなんだね。 神道は、森羅万象(しんらばんしょう)は勿論、魑魅魍魎(ちみもうりょう)をも 包み込んでしまうんだね。 「我は想う」 うむうむ。 「或る人問う」 改めて神道の思慮宏遠たる一端を垣間見たような気がする。 「我は想う」 うむ……。 |
[次へ進む] | [バック] |