「或る人問う」 「気」とは、元気とか、精気の気だね。空気の気、電気の気もあるけど。 「我は想う」 うむ。ここでは元気・精気のことにしよう。 「或る人問う」 人間の身体の中で、外気 − 周囲の気配(けはい) − を感ず器官として、 まず第一に考えられるのは、眼であろうと思うが……。 「我は想う」 そのとおり。眼なくして、生きることは出来ない。 「或る人問う」 しかし、視力の不自由な人達は? 「我は想う」 外気(外敵・獲物なども)と相対する眼が不自由な場合は、顔や手や足などが、 その代役を務めることとなろうが、生存する上で、多少見劣りがすると云うか、困難を 伴うかも知れない。 「或る人問う」 そのようなときは、私共は、優しさを以ってお手伝いをすることなんだね。 外気と、「気」との関係は? 「我は想う」 私共は、今生きていることを実感できるのは、外気に触れているときであろう。 日に当ったり日蔭に入ったり、風の音に耳を澄ましたり雨脚を避けたり、 川の流れや潮の音に郷愁を感じ、草木の香りや鳥の囀り、暑さや寒さ、 そして山紫水明、風光明媚……。 「気」は、このように、外気に触れることによって、また外気に刺激されること によって、充足され更新されていゆく……。 「或る人問う」 生きていることの実感は、眼を開きながら、前へ前へと進むことなんだね。 「我は想う」 外敵を見張る、獲物を追う、即ち何かを求める眼、行動する眼……。 「或る人問う」 @何かを求めて − 出掛ける A鎮守の杜の参道をしずしずと進んで − 外気に触れる B神前で敬虔な気持になって − 神の恵みを感じる そのようにして、「気」は更新されて(=蘇って)ゆく……。 それは、拘束でもなく、重圧でもなく、また約束でもなく、義務でもなく、 強要でもない、そして理屈でもない……。 あるのは、神の恵みを感じる雰囲気のみか……。 「我は想う」 うむ。 |
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