※「神道とは2」参照 「或る人問う」 「神道2」の中で、 …… 『万葉集』(巻十三・相聞)の柿本朝臣人麿歌集に、次のような歌があります。 「葦原の 水穂国は 神ながら 事挙せぬ国 然れども 辞挙ぞ吾がする 言さきくまさきく坐せと 恙みなく さきく坐さば 荒磯浪 有りても見むと 百重波 千重浪にしき 言上する吾」 この歌の「神ながら」とは「神道」、「事挙・辞挙・言上コトアゲ」とは「声に出して言う・理論だてる」と解釈されています。 「言挙げせぬ」と云うことは、教義や教典を持たないのと同時に、布教活動をも行わないこと云うです。神道は、日本民族の中から自然に発生した神観念と、それに伴う祭祀儀礼によって始まったものなので、教祖も存在しないことになります。 …… と云うことについては? 「我は想う」 ①教義経典(=思想哲学)は、時の経過と共に、日々更新し続けられてゆくものなので、 恒久的なものは構築しにくい。時間が経過すると、森羅万象、「時処位(のあり様)」が 時々刻々と変遷してゆくからである。 ②したがって、現行の(他の宗教の)教義経典は、教祖がいわゆる「言行録(宗旨)」 を初めて世に発表して以来(幾年も経過してくると)、多くの先人信者達によって 加筆修正されてきているので、理論的に辻褄が合わないところが出てきたり、 一貫性に欠けているようなところが見受けられるように想われる。 ③「神道」は即ち「神の道」であり、私共が志向するヒトの「生きる道(=人道)」 でもある。 人の道は、すべからく「ヒトの本性に関わる道」であると理解している。 「或る人問う」 と云うことは、何もわざわざ「人道」に関して理論を構築するまでもなく、 私共ヒトは、相互に共存共栄を旨として……。 では、「人の道」に沿っているかどうかについては? 「我は想う」 うむ。 時の経過と相俟って、本性に関して、穢れと云うか、罪と云うか、諸々の 「禍事(まがごと)」が纏わりつくこととなる。したがって、随時に、 かつ必要により、私共は、自己反省たる「祓え(=禊祓え)」 を行うことが求められよう。 ※「時処位」 ※「祓え」:別掲参照 |
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