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わが国は、四季が規則正しく移り変わり、また温暖な気候であるため、豊かな自然や
美しい風土に恵まれています。そのような自然環境に対して、無意識的に触れ合うこと
によって、日本人は絶えずその生命を瑞々しいものとして蘇らせてきました。 このような自然環境にあって古来、万物の存在や生成の営みに霊的なものを感じ取っ ていました。その霊的なもの、素晴らしい自然の生命力は、産霊ムスビによるものである し、そこに神霊 − 神が鎮まっておられると考えました。神々は即ち、人々に繁栄や幸 福 − 恩頼ミタマノフユをもたらしてくれるので、人々は真心を捧げ、鄭重に祀ってきました。 また奥深く厳かな自然物や神秘的な事象にも人々は畏敬を感じ、そのようなものには 神が宿る、つまり神の依代ヨリシロであると認識してきました。 私共が「今現在ここに在る」ことは、祖先や先人達から受け継がれたてきた遺産の恩 恵によるものです。この恩恵に報いるために、祖先の霊を親しく祀り、また社会に尽く された方々の遺徳を崇め、神として祀ってきているのです。 神は、それぞれの神名にその神徳が表わされるとされ、皇室の御祖神ミオヤガミと仰がれ、 太陽にも喩えられる天照大御神アマテラスオオミカミの広大無辺の神格を中心に、神道における神 々の世界が形成されています。 神道における信仰とは、神々の存在に「あるがまま」に触れ、感じることとも言えま す。 そのため、そこに生活する我々日本人は、「和」を旨としながら、神々の神徳のお陰 により和やかで優しい心が培われ、今日に至っているのです。 この「和」とは概略、神々の恩頼→万物の生成→人々の繁栄と幸福→神恩感謝(祭り )と万物の蘇生→遺産の伝承→神々の恩頼・・・・・・と云う「信頼の輪 − 和」と言い表す ことも出来ましょう。 『万葉集』(巻十三・相聞)の柿本朝臣人麿歌集に、次のような歌があります。 「葦原の 水穂国は 神ながら 事挙せぬ国 然れども 辞挙ぞ吾がする 言さきく まさきく坐せと 恙みなく さきく坐さば 荒磯浪 有りても見むと 百重波 千重浪 にしき 言上する吾」 この歌の「神ながら」とは「神道」、「事挙・辞挙・言上コトアゲ」とは「声に出して言う ・理論だてる」と解釈されています。 「言挙げせぬ」と云うことは、教義や教典を持たないのと同時に、布教活動をも行わ ないこと云うです。神道は、日本民族の中から自然に発生した神観念と、それに伴う祭 祀儀礼によって始まったものなので、教祖も存在しないことになります。 ところで、「時処位」と云う言葉があります。 即ちこれは、 @好い機会に、丁度好い頃合に、 A自分のなすべき役割(行動範囲)を担って誠心誠意努力し、 B自分の置かれている立場をよく理解した上で、組織体の目的 − 「もの」を成し遂 げる。 の意味であると自分は理解しています。 神々の恩頼によって古来から受け継がれてきた遺産 − 自然や文化などを更に蘇らせ つつ、後世へと伝えること、これが神道の一つの考えでもあり、時処位の具現化の一例 でもあると考えております。
H15.03.26 |