徒然想問

呪縛と自由の味覚巡り


△「水は方円の器に随う」が……
「或る人問う」
 ところで、「水は方円の器に随う」と云うが……
 
「我は想う」
 ……
 
「或る人問う」
 しかして、
@水が器にあるときを正常であるとすると、
A水が川を流れ行く状態は、異常と云うことになる。
 
「我は想う」
 逆に、
@水が川を流れ行く状態を正常であるとすれば、
A水が器にあるのは、異常と云うことになる。
 
「或る人問う」
 さて、
@ヒトが家族の一員となり、また一族の一員〜集団の一員〜国の一員(国民)とな
るとき、
Aそのヒトは、家族(の長)〜一族(同)〜集団(同)〜国(同、国王)に呪縛さ
れることが必須であるため、
Bこの状態は正常であり、呪縛から開放される − 自由となる − ことは異常と云
うことになる。
 
 欧米の人達の価値観や道徳律などは、歴史的にキリスト教の教義(聖書)に準拠
しており、今日に至っている。現在でも、この価値観や道徳律などは、生き生きと
している。
 従って、唯一絶対神の許に人々は生命を維持している。つまり、人々は、神に呪
縛されているのである。
 だから、
@神の呪縛 = 正常の状態から、
A自由の獲得 = 異常の状態になることは、
B神への罪となり、刑罰として責任を負うべきこととされる。
 
「我は想う」
 うむ。
 
「或る人問う」
 ここで、多神教〜仏教系の価値観や道徳律などを旨とする、わが国などでは、正
常はときとして異常へと移り行き、異常の状態が長く続くと、それが正常とみなさ
れることもある。正常と異常とは、表裏一体の関係にあるとも説明出来る。
 
 しかし、欧米では絶対的に神は異常な状態となることはなく、神は常に正常であ
り、正義なのである。
 従って、神への罪となる自由の獲得は、罰として責任を負うこととされる。勿
論、原罪についても同様であると……。
 
「我は想う」
 即ち、欧米の思想哲学の構築には、絶対的に神は正常 = 正義 = 善であること
を前提としていると考えられよう。

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