徒然想問

呪縛と自由の味覚巡り


△刑罰は性格の異なる二つであった
「或る人問う」
 今論じているのは、聖書に起因するキリスト教系、つまり欧米の価値観に基づく
事柄 − 思想哲学である。何故なら、欧米の思想哲学は現今、世界の大部分を網
羅しているからである。
 
「我は想う」
 うむ。
 
「或る人問う」
 さて、アダム達(=人間)は、いま一つの刑罰を科された。即ち、「働くこ
と」であった。
 
「我は想う」
 贖罪(=働くこと)だね。
 
「聖書の起源」
 
「或る人問う」
 贖罪にはもう一つの意味がある。即ち、キリスト教で、人々の罪をあがない、
人類を救うために、イエス-キリストが十字架にかかったとする教義(goo 辞
書)である。
 そこでキリスト教徒は、そのこと故に、行動 − 果敢に宇宙に挑戦することな
ども − を起し続けることが使命となった。
 
「我は想う」
 ……
 
「或る人問う」
 つまり、聖書に云う刑罰とは、
@働くこと − 行動すること
A(そして心理的に)自由であること
である、と整理することが出来よう。
 
「我は想う」
 それで……。
 
「或る人問う」
 しかして思想哲学 − 宗教は一過性であってはならない、永続性がなければな
らない……。
 
「我は想う」
 そう。
 
「或る人問う」
 必然的に、
@の働くこととは、生命ある限り働き続ける − 行動の継続 − と云うこと、
Aの自由であることとは、表裏一体のものとして、自由には常に責任を伴わなけ
ればならないこと……、
と、時代の経過と共に、思想哲学が収斂されてきた……。
 
「我は想う」
 と云うことか。

[次へ進む] [バック]   前画面へ戻る