徒然想問

呪縛と自由の味覚巡り


△ヒトは罪人であったからか?
「或る人問う」
 前掲後段の如く、人間の本性が呪縛されている姿であるとしたら、次のことが
思い出される。
 
「我は想う」
 ……
 
「或る人問う」
 即ち、フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』に拠れば、
@『創世記(聖書)』にみる原罪
 そもそも原罪の概念は『創世記』のアダムとイブの物語に由来している。『創世
記』の1章から3章によれば、アダムとイブは日本語で主なる神と訳されるヤハウェ
・エロヒム(エールの複数形)の近くで生きることが出来るという恵まれた状況に
おかれ、自然との完璧な調和を保って生きていた。主なる神はアダムに園になるす
べての木の実を食べることを許したが、中央にある善悪の知識の木だけは食べるこ
とを禁じた。しかし、蛇は言葉たくみにイブに近づき、木の実を食べさせることに
成功した。アダムもイブにしたがって木の実を食べた。二人は突然裸でいることが
はずかしくなり、イチジクの葉をあわせて身にまとった。主なる神はこれを知って
驚き、怒った。こうして蛇は地を這うよう定められたのろわれた存在となった。
 
 結果的に、二人は主なる神との親しい交わりを失い、永遠の生命を失い、自然と
の完全の調和も失った。ヤハウェ・エロヒムはアダムとイブが命の木を食べること
を恐れ二人を呪い、エデンの園から追放した。いわゆる失楽園である。子孫たちに
も二人の行動の結果が引き継がれることになった。
 
 二人の行動は二人の運命を変え、その子孫たちにも累を及ぼす結果となった。二
人の子孫たちは決して罪にまみれているわけではないが、人間の歴史そのものが楽
園追放前の親しい神との交わりの復活を目指す努力であるということができる。二
人が楽園を追放されたのは、木の実を食べたからではなく、主なる神の言葉に従わ
なかったからである。主なる神の言葉から考えると、もし二人が木の実を食べなけ
れば永遠に生きることが出来たはずである。
 ……
Aユダヤ教改革派及びオーソドックスの原罪観
 改革派ユダヤ教徒やオーソドックスとよばれる人々は、この原罪物語において人
間の行為以外の悪を見出さない。だから決して蛇をサタンの姿とは考えない。イブ
の唯一の罪は神の言葉に従わなかったことである。さらに創世記の記述からアダム
がイブを制止していないことが明らかであるため、イブだけを責めるのはおかしい
と考える。アダムとイブは楽園を追放されることで通常の人間の生活を送るように
なった、いいかえれば「家を出て」成長し、責任ある人間として生きるようになっ
たのだ。もし木の実を食べなければ、彼らは決して自由意志で生きることがなかっ
たであろう。
 
 さらにユダヤ教では、神は人間につねに選択の自由を与える方であるとみなされ
る。エデンの園でのアダムとイブはロボットのようなもので、彼らは木の実を食
べ、追放されることで初めて自由意志を行使した人間になった。神はこれを望んで
いたのだ、というのが改革派とオーソドックスによる原罪理解である。
 ……
 
 長々と聖書の一部を引用したが、
要約すれば、
@神の世界、つまり、神が人間を支配(=呪縛)している世界に住んでいたアダム
達(=人間)が、
A神から禁じられていた木の実を食べた、つまり、神の言いつけに違反した……、
B即ち、(食べた罪として心理的に)自由(を獲得した)と云う刑罰に処せられた
……、
と云うことであろう。
 
「我は想う」
 ……

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