徒然想問

強者は必ず勝つのか


△裏切れない板ばさみの境遇
「或る人問う」
 わが国の学校の先生など、いわゆる知識人は、その生まれも学力も生活態度も、
歴史的に優良優秀なものと認められてきている。そして、地域社会において「先
生、先生」と敬われている。どうして、「裏切り」など出来よう。
 しかし、より優秀な先生になるためには、親と言い争い、友と競い合い、己自身
と絶えず葛藤しつつ成長して、今日の自分に至ったものであろう。その過程では、
幾多の裏切りがあったと想像するに難くない。
 
「我は想う」
 優秀な先生として階段を上ってゆく過程においては、必ず「裏切り」を伴うと考
え得る。
 
「或る人問う」
 親を言い含めるのも、友人を蹴落として上級学校へ進むのも、自己の純真さに鞭
打つのも、全ては成長するための手段 = 裏切りなのか。しかし、本人は、裏切り
などしたとは認識していないのでは?
 
「我は想う」
 ……
 
「或る人問う」
 先生は、三十路になろうが、四十路になろうが、五十路になろうが、六十路
……、教室での授業の仕方や深浅の程度は変わることはない、否、変えることは出
来ない。教える内容について、自らの目標としても、また当事者(例えば国や都道
府県や市区町村など)の方針としても、それを任意に変えることを許されない「使
命」を帯びている。
 
「我は想う」
 「裏切り」は出来ないのである。
 
「或る人問う」
 先生は、自らがいくら成長を続けても、「教える」ことにおいて、裏切れない板
ばさみ(ジレンマ)の境遇にあるのか。
 
「我は想う」
 そのように想う。今更、「裏切り」など出来ない……

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