徒然想問

ジェンダー・フリーと補うこと


△二者択一
「或る人問う」
 前掲の「ジェンダー・チェック」も、唯一神と人民、信ずる者と信じない者、正
と悪、善と偽善なとなど、総ての事案は、二者択一で解決できると思うが………
 
「我は想う」
 二者択一(二元論)は、分りやすい。
 では、運動競技などでよく用いられる「心技体」のことをどのように思うか。
 
「或る人問う」
 おや!、反撃に出たな。
 通常、例えば「ある物を作る」にあっては、道具のことと、それを扱う技術(手
引き・手順書)のことの二つを説明すれば足りると思うが………
 
「我は想う」
 そのとおり。
 そのときの気分の良し悪しは、一般的には善意に解釈して、「よしっ、作ってみ
よう」と云うことを前提にしている。
 
 しかし、よりよくその物を作り出すためには、心(気分とも)がその気にならな
ければならない。
 疲れていたり、寝不足など気分の優れていないときは、その気分を癒さなければ
ならない。
 それが第三の要件としての「補完」と云うことであろう。

「或る人問う」  欧米諸国では、ほとんどの事案について、二元論により処理解決しているように 見受けられるが………   「我は想う」  唯一神と人民、信者と非信者、救われる者と救われない者………、このように分 類すると、説教しやすい。例えば知能の未熟な者などを対象にして説く場合には ………
「或る人問う」  これまでは、唯一神と人民とで織り成す二元論の世界について問うてきた。  さて、仏教においては、まず第一義的に「仏・法・僧」に帰依することの重要性が 説かれる。お葬式においても、信者・親族の行うべき最重要教義として、仏法僧に 帰依するようにと説かれる。    わが国においては歴史的に、ほとんど全国民が仏教(日本仏教のこと)の信者で あった。したがって、釈迦の教えには、絶対的な信頼感を持っている。現在でも、 釈迦の教えに逆らう人は、まずいない。その教え(日本仏教の一般的な教義)を伝 授する僧侶もまた、ことさらに大切にされている。何故なら、僧侶にならなけれ ば、極楽浄土へ行けないと云うことも説かれているからである。    したがって、先生(仏法を教える僧侶のこと、また学問などを教える人など) は、この世の中の不可欠の存在として、人々は先生を認識し崇めている。  また、事柄のあらゆる場面において、先生は不可欠の存在として構図されている 実態にある。と云うことは、わが国も、先生と人々との二元論の世界ではないの か。   「我は想う」  そのとおりとも云える。  欧米諸国から導入された諸説に関して、教室と呼ばれる限定された、閉鎖的な所 (以下本稿では、このような所を「教室」と呼ぶ)において、全面的に信頼を托し ている先生によって、二元論的手法によって、その諸説がいとも「良薬である」が 如くに説かれているのである、信ずることは当然である。   「或る人問う」  先生の資質に負うことが大と云うことか。   「我は想う」  先生の立場は、一義的には、その説を忠実に説教するだけだとも云える。    ここで、教えられる人(本稿では、便宜上「生徒」と呼ぶ)の性格について考え るみる必要がある。教室内では、先生も一人、生徒も一人(必要により何人か)で ある。しかし、生徒は、兄妹、親、そして一族・血族に見守られている。教室で教わ ったことは、単なる空論ではなく、実践すべき思想ないしは哲学として受け止めら れるのである。   「或る人問う」  すると、教室での先生と生徒との関係は、ひいては先生と生徒一族の関係という ことになると云うことか。   「我は想う」  そのとおり。  であるが故に、単純なる二元論としての設問(意向調査などの設問)だけでは、 生徒の十分な意見は得られないであろう。   「或る人問う」  まさか先生は、そのことを見透かしているのかも?………  先生にも、親や子、兄妹、そして一族・血族がいるので、その人たちに対する責 任もあることになるのだね。  そのようにことなども考慮して、説教なり、設問することだね。   「我は想う」  説教は、将来に向って、それが実践されることにある。   「或る人問う」  わが国においては、先生は神(いわゆる多神教の神のこと)になれること、仏に なれることの可能性を持っていると認識され、生徒は将来、先生になること(ある いは、なれないこともある)が期待されている。  したがって、今現在先生の役目を担っている方々は、将来先生になるべき人(生 徒)のために、教壇で自らを過剰評価しないようにと云うことか、独りよがりにな ったり、特権意識を持たないように、と云うことだね。  「恭倹己レヲ持シ」であるべきと云うことか。    しかして、先生は優秀な頭脳をもって生まれ、社会の先達として、人々を導き教 えておられる。今後ともますます期待される存在と云うことだね。   「我は想う」  そのとおり。

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