03 神道と神霊
参考:堀書店発行「神道辞典」
〈神道と神霊〉
△神霊の意味
(1) ①かみ、②神の威徳、③人の霊魂、④凡人と異なること(史記・五帝本紀)、などの
解釈がある。
(2) 『神道名目類聚抄』に、「当時、人死して、その霊を封じ、有道の人に求めて号を
奉る。是を霊号と云う。また、霊号に及ばざるものは諱イミナと唱う。諱の下に、神霊、ま
た霊神など称す」とある。一部神道家の間には、人の霊魂を崇めて、神霊・霊神などと称
した例があったことが知られる。この場合には、神はカミの意味ではなく、神秘・神魂な
どと云う場合と同様、形容詞又はココロの意味で用いたものと解釈される。
(3) 神道の普通の意味ではカミ、又はカミノミタマと解釈する。これは、カミの実体は
霊魂であると云う考えに基づくからである。
△霊魂
(1) 霊魂と云う語は、本来は漢字固有の意味を持っているが、わが国では、タマ・タマシ
ヒの意味に用い、霊・魂・魄などの漢字を、その固有の意味に関わりなく、同様に、タマ
シヒと訓ませて来た。漢字には「陽之精気曰神、陰之精気曰霊」(大戴礼)とする説、
「人生始化為魄、既生魄、陽曰魂」(左伝、昭公七年)など、陰陽に配する解釈がある。
鬼と神の如きも、陰陽対比の語であると考えられている。しかし、霊魂は元々形而上の
ものであるので、漢字の用法そのものも混乱して、必ず明確に区別して用いられている
訳ではない。わが国では、霊魂に当たる言葉は、タマ・タマシヒ・ミタマであると考える
のが最も普通であるが、古語には、カミ・タマ・モノ・ミ・ムスビと云う如き霊魂概念を表
す語がある。モノは大物主神、物部のモノで、ミは山祇(やまつみ)・海神(わだつみ)
のミである。これらの古語も、今日では意味の別が定かでない。
筆者(『神道辞典』)は、ミは生命や形を支えている実体としての、モノは運動、作
用、情念を属性とする実体としての霊魂を意味したであろうと考えている。そして、タ
マに関しては理性や美醜の判断・善悪の識別の働きを属性とし、真・善・美・永生・調和の如
き理想のために働く精神を体とする霊魂であると考えている。カミと云う霊魂概念は、
存在の本質的区別に基づく(カミと非カミに分類するための)類概念ではなく、信仰上
の敬称又は称辞(たたえごと)と解すべきものと考えている。しかし、カミと云う称辞
とタマ(ミタマ)と云う霊魂概念とは、信仰上引き離す事の出来ない意識上の関係があ
ることは、殆ど疑う余地が無い。言い換えれば、カミを祭るのはカミのミタマを祭る事
に他ならないし、人や物のタマを祭る意識は、これをカミと称える意識に繋がっていた。
ムスビ(別掲)には産霊の文字が当てられる。生命の創造作用を属性とする特殊の霊
魂のことであるが、玉留魂・津速魂・角凝魂などの文字に見るように、単に「魂」の一字
を以って「ムスビ」と訓ませているのは、魂の漢字の原義に、「ムスビ」の概念と通う
意味があると解釈されたためかも知れない。
神道においても、このように紛らわしい霊魂概念があって、一義的定義は難しい。
spirit、soul と云う如き外国語の場合も同様である。ただし、ミタマは、ドイツ語の
Geist の如く高次元のものである。ミ・モノなどのように、肉体や物体と不可分の霊で
はなく、心身の清浄を保たなければ、現れることが出来ず、働くことも出来ないもので
あることは、殆ど異論の余地があるまい。
△鎮魂
鎮魂は霊魂(タマ)が肉体を離れたとき、病又は死が訪れると云う信仰の下に、神楽・
魂振りなどの秘儀を行い、これを呼び還す秘法である。鎮魂祭は天皇・皇后・皇太子のた
めに行う宮中の古儀であるが、民間にも種々の秘法があったようである。神霊について
も、そのミタマを招いたり、鎮めたりする儀があるが、特殊の用語を以って区別される。
△神霊の招祷・降臨・分霊・合祀・配祀・鎮座・遷座・鎮斎・昇神・降神・動座など
これらは、神霊を神社、祭場に送迎したり、別処に神社を設けたりする場合に用いる
専門の語である。
△神霊の照覧・稜威・託宣・加護・聞食しキコシメシなど
これらは、神又は神霊の徳、或いは御所為について云うときの格別な用語である。
△神霊の四魂
別掲「御霊・神霊・御魂・霊考」→「神魂とは」の項参照
△神霊と神徳
神霊に高下の階などがあり、神徳に分掌(持ち別け)があると云うのが、古い伝統を
持つ信仰である。しかしながら、同じく神であるのに、そのような別があると考えるこ
とは、神道が抱えている神学的難問の一つである。また、現実に、神社の崇敬における
時代的変化や、祭神と氏子との結び付きに、今昔の差が生じた場合、神々の神徳の分掌
は果たして変わるのか、変わらぬのか、これもまた、神学的難問を提供するものである。
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