02 神道の霊魂観 参考:堀書店発行「神道辞典」 〈神道の霊魂観〉 原始宗教から高等宗教に至るまで、古今東西あらゆる宗教がその重要な要素として採 り上げているものに、霊魂の問題がある。 平田篤胤の「霊の真柱」(文化二年)が一応注目せられる。しかし、これは平田が神 道における霊の安心と云う宗教的要請を満たすために案出した霊魂観に関わり、客観的 研究ではない。この意味で信仰の立場を離れた霊魂の客観的研究は、更に時代を下らな ければならなかった。 折口信夫の業績は、霊の総合的把握と云う点で、他の追随を許さない。折口は、神道 の霊魂を表す宗教用語としては、「かみ」「たま」「もの」の三つを挙げる。古典では、 後世の「神」として把えられる明瞭な神性の存在者以前の形態の「かみ」をも同じ「か み」の語で呼んでいて、明らかに「たま」と同義語と考えねばならない場合もある。「 もの」は本来、精霊や死霊に類するものを指す呼称であった。古代では、この三つの霊 的存在を総称して、単に「かみ」と呼ぶこともある。この「たま」は物体に固着し、不 離であるばかりのものではなく、人間に即して言えば、人体に来触し、符着し、或いは 時に人体から遊離する。これは目には見えないが、恰も目に見えるが如くに信仰的に観 念されている。 抑も、「たま」の機能は何か。古代人の観念によれば、「もの」の発生は、外から入 り来る霊タマであって、それがある期間「もの」の中に這入っており、やがて出現して初 めてその後に、具体的な「もの」の姿を執ると信仰的に理解された。物の発生、出現に ついて、三段階に亘る経過を古代人は考えていた、と折口は独自の見解の下に説いてい る。 このような古代人の「たま」の観念は、宗教学的に見るとすれば、アニミズム段階の 信仰形態にあることを示すものが多いが、必ずしもこの段階のものだけではないのであ る。それ故、実体化せられた霊魂の信仰段階以前の、プレ・アニミズム(アニマティズム )段階の「マナー」を示す「たま」の用法もあることに注目しなければならない。アニ マティズムとは、物自体の持つ勢力なり性質に対して神聖観を感じ、「物」そのものを 活かして見る形態の信仰なのである。奈良県磯城の三輪山の神体山信仰は、三輪山の「 たま」をマナーとして信じている例の如くに思える。 更にプレ・アニミズムまたアニミズム段階の霊魂信仰とは別に、神道は、人格的・個別 的な「神」の信仰を持つ。寧ろこの段階の神信仰が神道の本領と見られるようになって いる。これを山の信仰で例えるならば、富士の山霊を木花佐久夜毘売コノハナサクヤビメとする が如き、人格的・個別的「神」存在の信仰の例証である。 このように神道における霊魂の信仰形態は、アニマティズム段階の「たま」、アニミ ズム段階の「たま」「もの」、そして人格的・個別的「神」の段階の三つに分けられる。 我々が古典を読むとき、霊魂を示す宗教語「たま」「もの」「おに」「神霊」が、これ らのうちの何れの信仰段階を示すか、よく文脈の上から判断し、理解して読む必要があ ると思われる。 さて三古風土記に「神霊」と書いて「かみ」と訓ませる例があり、茲だけに限ったこ とではないが、単に「神」と書いて「かみ」と訓ませるのと違い、人格的・個別的「神」 の観念は、神霊の存在を中心として把握せられている好い証拠である。また同じ風土記 で「神魂命」と書き「かむむすびのみこと」と訓ませてるのも、「むすび」の信仰が、 むすびを可能ならしめる「たま」(魂・霊)の存在を前提としていることの証拠である。 全体として神道の霊魂観は、「たま」「もの」「おに」から「神」「霊」「神」までの 諸相と展開を含んで考えられねばならない。しかし霊魂、神霊、神の概念は、これを解 説すれば抽象的であることを免れぬが、信仰的見地から見れば、具体的な神道の営みの 中で、かかる霊的存在の実在感が感得せられているのである。祭祀の重要な部門は、こ の実在感の前提の上に立つ。 最後に、神道が宗教事象である以上、神社の祭神と人間、つまり氏子と霊魂の問題が 解明せられねばならない。この点について、西角井正慶は、折口説の含蓄ある理解を「 神社は氏子の魂を預かっているところ」と云う言葉に約ツヅめて表明している。この見解 は「氏子の個々の命イノチを司るものは生命霊」であると云う前提に立つ。この生命霊は常 にその活動が健やかであるように、管理され、見守られる必要がある。そのことを果た すのが氏神であると云う見解である。