『日本人の自然観』
 
 盆栽生け花のごときも、また日本人にとっては庭園の延長でありまたある意味で圧縮
でもある。箱庭は言葉どおりに庭園のミニアチュアである。床の間に山水花鳥の掛け物
をかけるのもまたそのバリアチオンと考えられなくもない。西洋でも花瓶(かびん)に
花卉(かき)を盛りバルコンにゼラニウムを並べ食堂に常緑樹を置くが、しかし、それ
は主として色のマッスとしてであり、あるいは天然の香水びんとしてであるように見え
る。「枝ぶり」などという言葉もおそらく西洋の国語には訳せない言葉であろう。どん
な裏店(うらだな)でも朝顔の鉢(はち)ぐらいは見られる。これが見られる間は、日
本人は西洋人にはなりきれないし、西洋の思想やイズムはそのままの形では日本の土に
根をおろしきれないであろうとは常々私の思うことである。
 日本人の遊楽の中でもいわゆる花見遊山はある意味では庭園の拡張である。自然を庭
に取り入れる彼らはまた庭を山野に取り広げるのである。
 月見をする。星祭りをする。これも、少し無理な言い方をすれば庭園の自然を宇宙空
際にまで拡張せんとするのであると言われないこともないであろう。
 日本人口の最大多数の生産的職業がまた植物の栽培に関しているという点で庭園的な
要素をもっている。普通な農作のほかに製茶製糸養蚕のごときものも、鉱業や近代的製
造工業のごときものに比較すればやはり庭園的である。風にそよぐ稲田、露に浴した芋
畑を自然観賞の対象物の中に数えるのが日本人なのである。
 農業者はまたあらゆる職業者の中でも最も多く自然の季節的推移に関心をもち、自然
の異常現象を恐れるものである。この事が彼らの不断の注意を自然の観察にふり向け、
自然の命令に従順に服従することによってその厳罰を免れその恩恵を享有するように努
力させる。
 反対の例を取ってみるほうがよくわかる。私の知人の実業家で年じゅう忙しい人があ
る。この人にある時私は眼前の若葉の美しさについての話をしたら、その人は、なるほ
ど今は若葉時かと言ってはじめて気がついたように庭上を見渡した。忙しい忙しいで時
候が今どんなだかそんなことを考えたりする余裕はないということであった。こういう
人ばかりであったら農業は成立しない。
 津々浦々に海の幸(さち)をすなどる漁民や港から港を追う水夫船頭らもまた季節こ
とに日々の天候に対して敏感な観察者であり予報者でもある。彼らの中の古老は気象学
者のまだ知らない空の色、風の息、雲のたたずまい、波のうねりの機微なる兆候に対し
て尖鋭(せんえい)な直観的洞察力(どうさつりょく)をもっている。長い間の命がけ
の勉強で得た超科学的の科学知識によるのである。それによって彼らは海の恩恵を受け
つつ海の禍(わざわい)を避けることを学んでいるであろう。それで、生活に追われる
漁民自身は自覚的には海の自然を解説することはしないとしても、彼らを通して海の自
然が国民の大多数の自然観の中に浸潤しつつ日本人固有の海洋観を作り上げたものであ
ろう。そうしてさらにまた山幸彦(やまさちひこ)・海幸彦(うみさちひこ)の神話で
象徴されているような海陸生活の接触混合が大八州国(おおやしま)の住民の対自然観
を多彩にし豊富にしたことは疑いもないことである。
 以上述べきたったような日本の自然の特異性またそれによって規約された日本人の日
常生活の特異性はその必然の効果を彼らの精神生活に及ぼさなければならないはずであ
る。この方面に関しては私ははなはだ不案内であるが上述の所説の行きがかり上少しば
かり蛇足(だそく)を加えることを許されたい。
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