『神神の微笑』
 
 桶の上にのった女は、いつまでも踊をやめなかった。彼女の髪を巻いた蔓は、ひらひ
らと空に翻った。彼女の頸に垂れた玉は、何度も霰アラレのように響き合った。彼女の手に
とった小笹の枝は、縦横に風を打ちまわった。しかもその露アラわにした胸! 赤い篝火
カガリビの光の中に、艶々ツヤツヤと浮び出た二つの乳房は、ほとんどオルガンティノの眼に
は、情欲そのものとしか思われなかった。彼は泥烏須を念じながら、一心に顔をそむけ
ようとした。が、やはり彼の体は、どう云う神秘な呪の力か、身動きさえ楽には出来な
かった。
 
 その内に突然沈黙が、幻の男女たちの上へ降った。桶の上に乗った女も、もう一度正
気ショウキに返ったように、やっと狂わしい踊をやめた。いや、鳴き競っていた鶏さえ、こ
の瞬間は頸を伸ばしたまま、一度にひっそりとなってしまった。するとその沈黙の中に、
永久に美しい女の声が、どこからか厳かに伝わって来た。
「私がここに隠コモっていれば、世界は暗闇になった筈ではないか? それを神々は楽し
そうに、笑い興じていると見える。」
 その声が夜空に消えた時、桶の上にのった女は、ちらりと一同を見渡しながら、意外
なほどしとやかに返事をした。
「それはあなたにも立ち勝マサった、新しい神がおられますから、喜び合っておるのでご
ざいます。」
 その新しい神と云うのは、泥烏須を指しているのかも知れない。 − オルガンティノ
はちょいとの間、そう云う気もちに励まされながら、この怪しい幻の変化に、やや興味
のある目を注いだ。
 
 沈黙はしばらく破れなかった。が、たちまち鶏の群が、一斉に鬨をつくったと思うと、
向うに夜霧を堰き止めていた、岩屋の戸らしい一枚岩が、徐オモムろに左右へ開き出した。
そうしてその裂け目からは、言句ゴンクに絶した万道バンドウの霞光カコウが、洪水のように漲
ミナギり出した。
 オルガンティノは叫ぼうとした。が、舌は動かなかった。オルガンティノは逃げよう
とした。が、足も動かなかった。彼はただ大光明のために、烈しく眩暈メマイが起るのを感
じた。そうしてその光の中に、大勢の男女の歓喜する声が、澎湃ホウハイと天に昇るのを聞
いた。
「大日霊貴オオヒルメムチ! 大日霊貴! 大日霊貴!」
「新しい神なぞはおりません。新しい神なぞはおりません。」
「あなたに逆うものは亡びます。」
「御覧なさい。闇が消え失せるのを。」
「見渡す限り、あなたの山、あなたの森、あなたの川、あなたの町、あなたの海です
。」
「新しい神なぞはおりません。誰も皆あなたの召使です。」
「大日霊貴! 大日霊貴! 大日霊貴!」
 
 そう云う声の湧き上る中に、冷汗になったオルガンティノは、何か苦しそうに叫んだ
きりとうとうそこへ倒れてしまった。………
 その夜も三更サンコウに近づいた頃、オルガンティノは失心の底から、やっと意識を恢復
した。彼の耳には神々の声が、未だに鳴り響いているようだった。が、あたりを見廻す
と、人音ヒトオトも聞えない内陣には、円天井のランプの光が、さっきの通り朦朧モウロウと壁
画ヘキガを照らしているばかりだった。オルガンティノは呻ウメき呻き、そろそろ祭壇の後
ろを離れた。あの幻にどんな意味があるか、それは彼にはのみこめなかった。しかしあ
の幻を見せたものが、泥烏須でない事だけは確かだった。
「この国の霊と戦うのは、……」
 オルガンティノは歩きながら、思わずそっと独り語ゴトを洩らした。
「この国の霊と戦うのは、思ったよりもっと困難らしい。勝つか、それともまた負ける
か、 − 」
 
 するとその時彼の耳に、こう云う囁ササヤきを送るものがあった。
「負けですよ!」
 オルガンティノは気味悪そうに、声のした方を透かして見た。が、そこには不相変
アイカワラズ、仄暗ホノグラい薔薇や金雀花エニシダのほかに、人影らしいものも見えなかった。
 
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 オルガンティノは翌日の夕も、南蛮寺ナンバンジの庭を歩いていた。しかし彼の碧眼
ヘキガンには、どこか嬉しそうな色があった。それは今日一日の内に、日本の侍が三四人、
奉教人ホウキョウニンの列にはいったからだった。
 庭の橄欖カンランや月桂は、ひっそりと夕闇に聳えていた。ただその沈黙が擾ミダされるの
は、寺の鳩が軒へ帰るらしい、中空ナカゾラの羽音ハオトよりほかはなかった。薔薇の匂、砂
の湿り、 − 一切は翼のある天使たちが、「人の女子オミナゴの美しきを見て、」妻を求め
に降って来た、古代の日の暮のように平和だった。
「やはり十字架の御威光の前には、穢ケガらわしい日本の霊の力も、勝利を占める事はむ
ずかしいと見える。しかし昨夜ユウベ見た幻は? − いや、あれは幻に過ぎない。悪魔は
アントニオ上人ショウニンにも、ああ云う幻を見せたではないか? その証拠には今日になる
と、一度に何人かの信徒さえ出来た。やがてはこの国も至る所に、天主テンシュの御寺ミテラが
建てられるであろう。」
 
 オルガンティノはそう思いながら、砂の赤い小径を歩いて行った。すると誰か後ろか
ら、そっと肩を打つものがあった。彼はすぐに振り返った。しかし後には夕明りが、径
ミチを挟んだ篠懸スズカケの若葉に、うっすりと漂タダヨっているだけだった。
「御主。守らせ給え!」
 彼はこう呟(つぶや)いてから、徐オモムろに頭カシラをもとへ返した。と、彼の傍カタワラに
は、いつのまにそこへ忍び寄ったか、昨夜の幻に見えた通り、頸クビに玉を巻いた老人が
一人、ぼんやり姿を煙らせたまま、徐ろに歩みを運んでいた。
 
「誰だ、お前は?」
 不意を打たれたオルガンティノは、思わずそこへ立ち止まった。
「私は、 − 誰でもかまいません。この国の霊の一人です。」
 老人は微笑ビショウを浮べながら、親切そうに返事をした。
「まあ、御一緒に歩きましょう。私はあなたとしばらくの間、御話しするために出て来
たのです。」
 オルガンティノは十字を切った。が、老人はその印に、少しも恐怖を示さなかった。
「私は悪魔ではないのです。御覧なさい、この玉やこの剣を。地獄の炎に焼かれた物な
ら、こんなに清浄ではいない筈です。さあ、もう呪文なぞを唱えるのはおやめなさい。
」
 オルガンティノはやむを得ず、不愉快そうに腕組をしたまま、老人と一しょに歩き出
した。
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