『神神の微笑』
「あなたは天主教テンシュキョウを弘めに来ていますね、 − 」
老人は静かに話し出した。
「それも悪い事ではないかも知れません。しかし泥烏須デウスもこの国へ来ては、きっと
最後には負けてしまいますよ。」
「泥烏須は全能の御主オンアルジだから、泥烏須に、 − 」
オルガンティノはこう云いかけてから、ふと思いついたように、いつもこの国の信徒
に対する、叮嚀テイネイな口調を使い出した。
「泥烏須に勝つものはない筈です。」
「ところが実際はあるのです。まあ、御聞きなさい。はるばるこの国へ渡って来たのは、
泥烏須ばかりではありません。孔子コウシ、孟子モウシ、荘子ソウシ、 − そのほか支那からは哲
人たちが、何人もこの国へ渡って来ました。しかも当時はこの国が、まだ生まれたばか
りだったのです。支那の哲人たちは道のほかにも、呉ゴの国の絹だの秦シンの国の玉だの、
いろいろな物を持って来ました。いや、そう云う宝よりも尊い、霊妙レイミョウな文字さえ持
って来たのです。が、支那はそのために、我々を征服出来たでしょうか? たとえば文
字を御覧なさい。文字は我々を征服する代りに、我々のために征服されました。私が昔
知っていた土人に、柿の本の人麻呂ヒトマロと云う詩人があります。その男の作った七夕
タナバタの歌は、今でもこの国に残っていますが、あれを読んで御覧なさい。牽牛織女
ケンギュウシュクヅョはあの中に見出す事は出来ません。あそこに歌われた恋人同士は飽アくまで
も彦星ヒコボシと棚機津女タナバタツメとです。彼等の枕に響いたのは、ちょうどこの国の川の
ように、清い天の川の瀬音セオトでした。支那の黄河コウガや揚子江ヨウスコウに似た、銀河の浪
音ではなかったのです。しかし私は歌の事より、文字の事を話さなければなりません。
人麻呂はあの歌を記すために、支那の文字を使いました。が、それは意味のためより、
発音のための文字だったのです。舟シュウと云う文字がはいった後も、「ふね」は常に「ふ
ね」だったのです。さもなければ我々の言葉は、支那語になっていたかも知れません。
これは勿論人麻呂よりも、人麻呂の心を守っていた、我々この国の神の力です。のみな
らず支那の哲人たちは、書道をもこの国に伝えました。空海クウカイ、道風ドウフウ、佐理サリ、
行成コウゼイ − 私は彼等のいる所に、いつも人知れず行っていました。彼等が手本にして
いたのは、皆支那人の墨蹟ボクセキです。しかし彼等の筆先フデサキからは、次第に新しい美
が生れました。彼等の文字はいつのまにか、王羲之オウギシでもなければチョ遂良チョスイリョウ
でもない、日本人の文字になり出したのです。しかし我々が勝ったのは、文字ばかりで
はありません。我々の息吹きは潮風のように、老儒ロウジュの道さえも和ヤワラげました。こ
の国の土人に尋ねて御覧なさい。彼等は皆孟子の著書は、我々の怒に触れ易いために、
それを積んだ船があれば、必ず覆クツガエると信じています。科戸シナトの神はまだ一度も、
そんな悪戯イタズラはしていません。が、そう云う信仰の中ウチにも、この国に住んでいる我
々の力は、朧オボロげながら感じられる筈です。あなたはそう思いませんか?」
オルガンティノは茫然と、老人の顔を眺め返した。この国の歴史に疎ウトい彼には、折
角の相手の雄弁も、半分はわからずにしまったのだった。
「支那の哲人たちの後に来たのは、印度の王子悉達多シタアルタです。 − 」
老人は言葉を続けながら、径ばたの薔薇の花をむしると、嬉しそうにその匂を嗅いだ。
が、薔薇はむしられた跡にも、ちゃんとその花が残っていた。ただ老人の手にある花は
色や形は同じに見えても、どこか霧のように煙っていた。
「仏陀ブッダの運命も同様です。が、こんな事を一々御話しするのは、御退屈を増すだけ
かも知れません。ただ気をつけて頂きたいのは、本地垂跡ホンジスイジャクの教の事です。あ
の教はこの国の土人に、大日霊貴オオヒルメムチは大日如来ダイニチニョライと同じものだと思わせま
した。これは大日霊貴の勝でしょうか? それとも大日如来の勝でしょうか? 仮りに
現在この国の土人に、大日霊貴は知らないにしても、大日如来は知っているものが、大
勢あるとして御覧なさい。それでも彼等の夢に見える、大日如来の姿の中ウチには、印度
仏ブツの面影よりも、大日霊貴が窺ウカガわれはしないでしょうか? 私は親鸞シンランや日蓮
ニチレンと一しょに、沙羅双樹サラソウジュの花の陰も歩いています。彼等が随喜渇仰ズイキカツゴウ
した仏ホトケは、円光のある黒人コクジンではありません。優しい威厳イゲンに充ち満ちた上宮
太子ジョウグウタイシなどの兄弟です。 − が、そんな事を長々と御話しするのは、御約束の
通りやめにしましょう。つまり私が申上げたいのは、泥烏須のようにこの国に来ても、
勝つものはないと云う事なのです。」
「まあ、御待ちなさい。御前オマエさんはそう云われるが、 − 」
オルガンティノは口を挟んだ。
「今日などは侍が二三人、一度に御教オンオシエに帰依キエしましたよ。」
「それは何人ナンニンでも帰依するでしょう。ただ帰依したと云う事だけならば、この国の
土人は大部分悉達多の教えに帰依しています。しかし我々の力と云うのは、破壊する力
ではありません。造り変える力なのです。」
老人は薔薇の花を投げた。花は手を離れたと思うと、たちまち夕明りに消えてしまっ
た。
「なるほど造り変える力ですか? しかしそれはお前さんたちに、限った事ではないで
しょう。どこの国でも、 − たとえば希臘ギリシャの神々と云われた、あの国にいる悪魔で
も、 − 」
「大いなるパンは死にました。いや、パンもいつかはまたよみ返るかも知れません。し
かし我々はこの通り、未だに生きているのです。」
オルガンティノは珍しそうに、老人の顔へ横眼を使った。
「お前さんはパンを知っているのですか?」
「何、西国サイコクの大名の子たちが、西洋から持って帰ったと云う、横文字ヨコモジの本にあ
ったのです。 − それも今の話ですが、たといこの造り変える力が、我々だけに限らな
いでも、やはり油断はなりませんよ。いや、むしろ、それだけに、御気をつけなさいと
云いたいのです。我々は古い神ですからね。あの希臘の神々のように、世界の夜明けを
見た神ですからね。」
「しかし泥烏須は勝つ筈です。」
オルガンティノは剛情に、もう一度同じ事を云い放った。が、老人はそれが聞えない
ように、こうゆっくり話し続けた。
「私はつい四五日前、西国の海辺に上陸した、希臘の船乗りに遇いました。その男は神
ではありません。ただの人間に過ぎないのです。私はその船乗と、月夜の岩の上に坐り
ながら、いろいろの話を聞いて来ました。目一つの神につかまった話だの、人を豕イノコに
する女神の話だの、声の美しい人魚の話だの、 − あなたはその男の名を知っています
か? その男は私に遇った時から、この国の土人に変りました。今では百合若ユリワカと名
乗っているそうです。ですからあなたも御気をつけなさい。泥烏須も必ず勝つとは云わ
れません。天主教はいくら弘まっても、必ず勝つとは云われません。」
老人はだんだん小声になった。
「事によると泥烏須自身も、この国の土人に変るでしょう。支那や印度も変ったのです。
西洋も変らなければなりません。我々は木々の中にもいます。浅い水の流れにもいます。
薔薇の花を渡る風にもいます。寺の壁に残る夕明りにもいます。どこにでも、またいつ
でもいます。御気をつけなさい。御気をつけなさい。………」
その声がとうとう絶えたと思うと、老人の姿も夕闇の中へ、影が消えるように消えて
しまった。と同時に寺の塔からは、眉をひそめたオルガンティノの上へ、アヴェ・マリア
の鐘が響き始めた。
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南蛮寺のパアドレ・オルガンティノは、 − いや、オルガンティノに限った事ではな
い。悠々とアビトの裾を引いた、鼻の高い紅毛人コウモウジンは、黄昏タソガレの光の漂った、
架空カクウの月桂や薔薇の中から、一双の屏風ビョウブへ帰って行った。南蛮船入津ナンバンセン
ニュウシンの図を描いた、三世紀以前の古屏風へ。
さようなら。パアドレ・オルガンティノ! 君は今君の仲間と、日本の海辺を歩きなが
ら、金泥キンデイの霞に旗を挙げた、大きい南蛮船を眺めている。泥烏須が勝つか、大日霊
貴が勝つか − それはまだ現在でも、容易に断定は出来ないかも知れない。が、やがて
は我々の事業が、断定を与うべき問題である。君はその過去の海辺から、静かに我々を
見てい給え。たとい君は同じ屏風の、犬を曳いた甲比丹カピタンや、日傘をさしかけた黒ん
坊の子供と、忘却の眠に沈んでいても、新たに水平へ現れた、我々の黒船クロフネの石火矢
イシビヤの音は、必ず古めかしい君等の夢を破る時があるに違いない。それまでは、 − さ
ようなら。パアドレ・オルガンティノ! さようなら。南蛮寺のウルガン伴天連バテレン!
(大正十年十二月)
参考 「青空文庫」
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