『神神の微笑』（全文）芥川龍之介著
　
　ある春の夕ﾕｳﾍﾞ、Padre Organtino（オルガンティノ）はたった一人、長いアビト（法
衣ﾎｳｴ）の裾を引きながら、南蛮寺ﾅﾝﾊﾞﾝｼﾞの庭を歩いていた。
　庭には松や檜の間に、薔薇ﾊﾞﾗだの、橄欖ｶﾝﾗﾝだの、月桂ｹﾞｯｹｲだの、西洋の植物が植
えてあった。殊に咲き始めた薔薇の花は、木々を幽かにする夕明ﾕｳｱｶりの中に、薄甘い
匂を漂わせていた。それはこの庭の静寂に、何か日本とは思われない、不可思議な魅力
を添えるようだった。
　
　オルガンティノは寂しそうに、砂の赤い小径ｺﾐﾁを歩きながら、ぼんやり追憶に耽って
いた。羅馬ﾛｵﾏの大本山、リスポアの港、羅面琴ﾗﾍﾞｲｶの音ﾈ、巴旦杏ﾊﾀﾝｷｮｳの味、「御主
ｵﾝｱﾙｼﾞ、わがアニマ（霊魂）の鏡」の歌 − そう云う思い出はいつのまにか、この紅毛
ｺｳﾓｳの沙門ｼｬﾓﾝの心へ、懐郷ｶｲｷｮｳの悲しみを運んで来た。彼はその悲しみを払うため
に、そっと泥烏須ﾃﾞｳｽ（神）の御名ﾐﾅを唱えた。が、悲しみは消えないばかりか、前よ
りは一層彼の胸へ、重苦しい空気を拡げ出した。
　
「この国の風景は美しい − 。」
　オルガンティノは反省した。
「この国の風景は美しい。気候もまず温和である。土人は、 − あの黄面ｺｳﾒﾝの小人
ｺﾋﾞﾄよりも、まだしも黒ん坊がましかも知れない。しかしこれも大体の気質は、親しみ
易いところがある。のみならず信徒も近頃では、何万かを数えるほどになった。現にこ
の首府のまん中にも、こう云う寺院が聳ｿﾋﾞえている。して見ればここに住んでいるの
は、たとい愉快ではないにしても、不快にはならない筈ではないか？　が、自分はどう
かすると、憂鬱の底に沈む事がある。リスポアの市ﾏﾁへ帰りたい、この国を去りたいと
思う事がある。これは懐郷の悲しみだけであろうか？　いや、自分はリスポアでなくと
も、この国を去る事が出来さえすれば、どんな土地へでも行きたいと思う。支那ｼﾅでも､
沙室ｼｬﾑでも、印度でも、 − つまり懐郷の悲しみは、自分の憂鬱の全部ではない。自分
はただこの国から、一日も早く逃れたい気がする。しかし − しかしこの国の風景は美
しい。気候もまず温和である。……」
　
　オルガンティノは吐息ﾄｲｷをした。この時偶然彼の眼は、点々と木かげの苔に落ちた、
仄白ﾎﾉｼﾞﾛい桜の花を捉えた。桜！　オルガンティノは驚いたように、薄暗い木立ちの間
を見つめた。そこには四五本の棕櫚ｼｭﾛの中に、枝を垂らした糸桜が一本、夢のように花
を煙らせていた。
「御主ｵﾝｱﾙｼﾞ守らせ給え！」
　オルガンティノは一瞬間、降魔ｺﾞｳﾏの十字を切ろうとした。実際その瞬間彼の眼には､
この夕闇に咲いた枝垂桜が、それほど無気味に見えたのだった。無気味に、 − と云う
よりもむしろこの桜が、何故か彼を不安にする、日本そのもののように見えたのだった｡
が、彼は刹那ｾﾂﾅの後、それが不思議でも何でもない、ただの桜だった事を発見すると、
恥しそうに苦笑しながら、静かにまたもと来た小径へ、力のない歩みを返して行った。
　
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　三十分の後、彼は南蛮寺の内陣ﾅｲｼﾞﾝに、泥烏須ﾃﾞｳｽへ祈祷を捧げていた。そこにはた
だ円天井から吊るされたランプがあるだけだった。そのランプの光の中に、内陣を囲ん
だフレスコの壁には、サン･ミグエルが地獄の悪魔と、モオゼの屍骸ｼｶﾞｲを争っていた。
が、勇ましい大天使は勿論、吼ﾀｹり立った悪魔さえも、今夜は朧げな光の加減か、妙に
ふだんよりは優美に見えた。それはまた事によると、祭壇の前に捧げられた、水々しい
薔薇や金雀花ｴﾆｼﾀが、匂っているせいかも知れなかった。彼はその祭壇の後ろに、じっ
と頭を垂れたまま、熱心にこう云う祈祷を凝らした。
「南無大慈大悲の泥烏須如来ﾃﾞｳｽﾆｮﾗｲ！　私はリスポアを船出した時から、一命はあな
たに奉って居ります。ですから、どんな難儀に遇っても、十字架の御威光を輝かせるた
めには、一歩も怯ﾋﾙまずに進んで参りました。これは勿論私一人の、能ﾖくする所ではご
ざいません。皆天地の御主、あなたの御恵ｵﾝﾒｸﾞﾐでございます。が、この日本に住んで
いる内に、私はおいおい私の使命が、どのくらい難いかを知り始めました。この国には
山にも森にも、あるいは家々の並んだ町にも、何か不思議な力が潜んで居ります。そう
してそれが冥々ﾒｲﾒｲの中ｳﾁに、私の使命を妨げて居ります。さもなければ私はこの頃の
ように、何の理由もない憂鬱の底へ、沈んでしまう筈はございますまい。ではその力と
は何であるか、それは私にはわかりません。が、とにかくその力は、ちょうど地下の泉
のように、この国全体へ行き渡って居ります。まずこの力を破らなければ、おお、南無
大慈大悲の泥烏須如来！　邪宗に惑溺ﾜｸﾃﾞｷした日本人は波羅葦増ﾊﾗｲｿ（天界ﾃﾝｶﾞｲ）の
荘厳ｼｮｳｺﾞﾝを拝する事も、永久にないかも存じません。私はそのためにこの何日か、煩
悶ﾊﾝﾓﾝに煩悶を重ねて参りました。どうかあなたの下部ｼﾓﾍﾞ、オルガンティノに、勇気
と忍耐とを御授け下さい。 − 」
　
　その時ふとオルガンティノは、鶏の鳴き声を聞いたように思った。が、それには注意
もせず、さらにこう祈祷の言葉を続けた。
「私は使命を果すためには、この国の山川に潜んでいる力と、 − 多分は人間に見えな
い霊と、戦わなければなりません。あなたは昔紅海ｺｳｶｲの底に、埃及ｴｼﾞﾌﾟﾄの軍勢を御
沈めになりました。この国の霊の力強い事は、埃及の軍勢に劣りますまい。どうか古
ｲﾆｼｴの予言者のように、私もこの霊との戦に、………」
　
　祈祷の言葉はいつのまにか、彼の唇から消えてしまった。今度は突然祭壇のあたりに､
けたたましい鶏鳴ｹｲﾒｲが聞えたのだった。オルガンティノは不審そうに、彼の周囲を眺
めまわした。すると彼の真後ﾏｳｼﾛには、白々と尾を垂れた鶏が一羽、祭壇の上に胸を張
ったまま、もう一度、夜でも明けたように鬨ﾄｷをつくっているではないか？
　オルガンティノは飛び上るが早いか、アビトの両腕を拡げながら、倉皇ｿｳｺｳとこの鳥
を逐い出そうとした。が、二足三足ﾌﾀｱｼﾐｱｼ踏み出したと思うと、「御主」と、切れ切れ
に叫んだなり、茫然とそこへ立ちすくんでしまった。この薄暗い内陣の中には、いつど
こからはいって来たか、無数の鶏が充満している、 − それがあるいは空を飛んだり、
あるいはそこここを駈けまわったり、ほとんど彼の眼に見える限りは、鶏冠ﾄｻｶの海にし
ているのだった。
　
「御主、守らせ給え！」
　彼はまた十字を切ろうとした。が、彼の手は不思議にも、万力ﾏﾝﾘｷか何かに挟まれた
ように、一寸ｲｯｽﾝとは自由に動かなかった。その内にだんだん内陣の中には、榾火ﾎﾀﾋﾞ
の明りに似た赤光ｼｬｯｺｳが、どこからとも知れず流れ出した。オルガンティノは喘ｱｴぎ喘
ぎ、この光がさし始めると同時に、朦朧ﾓｳﾛｳとあたりへ浮んで来た、人影があるのを発
見した。
　人影は見る間に鮮かになった。それはいずれも見慣れない、素朴な男女の一群ﾋﾄﾑﾚだ
った。彼等は皆頸ｸﾋﾞのまわりに、緒にぬいた玉を飾りながら、愉快そうに笑い興じてい
た。内陣に群がった無数の鶏は、彼等の姿がはっきりすると、今までよりは一層高らか
に、何羽も鬨をつくり合った。同時に内陣の壁は、 − サン･ミグエルの画ｴを描いた壁
は、霧のように夜へ呑まれてしまった。その跡には、 − 日本の Bacchanalia は、呆気
ｱｯｹにとられたオルガンティノの前へ、蜃気楼ｼﾝｷﾛｳのように漂って来た。彼は赤い篝
ｶｶﾞﾘの火影ﾎｶｹﾞに、古代の服装をした日本人たちが、互いに酒を酌み交しながら、車座
をつくっているのを見た。そのまん中には女が一人、 − 日本ではまだ見た事のない、
堂々とした体格の女が一人、大きな桶を伏せた上に、踊り狂っているのを見た。桶の後
ろには小山のように、これもまた逞しい男が一人、根こぎにしたらしい榊ｻｶｷの枝に、玉
だの鏡だのが下ｻｶﾞったのを、悠然と押し立てているのを見た。彼等のまわりには数百の
鶏が、尾羽根や鶏冠ﾄｻｶをすり合せながら、絶えず嬉しそうに鳴いているのを見た。その
また向うには、 − オルガンティノは、今更のように、彼の眼を疑わずにはいられなか
った。 − そのまた向うには夜霧の中に、岩屋ｲﾜﾔの戸らしい一枚岩が、どっしりと聳え
ているのだった。