02 復古神道とは
 
                         参考:堀書店発行「神道辞典」
 
                     江戸時代に興った復古神道フッコシントウの思想
                    は、やがて明治維新の近代国家を促しまし
                    た。復古神道の思想の主流をなし、現在(
                    昭和時代〜平成)に至るまで日本人の思想
                    形成、乃至は神社神道の理念を支える代表
                    的偉人達を四大人シウシと云います。
                     四大人とは、荷田春満・賀茂真淵・本居宣
                    長・平田篤胤の各氏のことです。
                     本稿は、四大人に関することについて記
                    してみました。         SYSOP
 
〈復古神道とは〉
 学派神道の一。契沖(寛永一七〜享保二〇・1640〜1735)、荷田春満(寛文九〜元文
七・1669〜1736)、賀茂真淵(元禄一〇〜明和六・1697〜1769)、本居宣長(享保一五
〜享和元・1730〜1801)、伴信友(安永三〜弘代三・1773〜1846)、平田篤胤(安永五
〜天保一四・1776〜1843)、佐藤信淵(明和六〜嘉永三・1769〜1850)、大国隆正(寛
政四〜明治四・1793〜1871)、鈴木重胤(文化九〜文久三・1812〜63)等は、この学派
に属する。
 復古神道の特色は、国学の研究方法を神典の解釈に当て嵌ハめて神道を解き明らめ、「
天照大御神の道にして、天皇の天下を知シロし食メす道」であると共に、「まず人として、
人の道はいかなるものぞということを」(初山踏)求めた点にあろう。道は天皇の道で
あると同時に人の道でもある。国学をば古道学と称する所以である。この道は記紀二典
等に備わっているとは言え、これらを「よむには大オオキに心得あり」(同)。
 究明の対象として古典を扱うだけでは、「たゞ名のみ」(玉勝間十の巻)の名目上の
皇国ミクニの学マナビをしていると云うに止まり、「道を明らかにせむ」ことを志す「わが心
」に逆き(同二の巻)、且つ古の道も求められない。
 
 然からば神典を読む上の心得とは何か。この点を、はっきり示して、単に古典に止ま
らず、一般の学問の研究上の方法論としても価値ある方法を明確にし、この方法論に則
して、古典の究明を試み道をものにした点に、従前の諸神道学派とは違った特色が見ら
れる。従って復古神道は、本居宣長に至って頂点に達したとも言えよう。『玉勝間』で
宣長は、契沖・真淵によって学問の本質についてその考えを開眼されたことを説き、『初
山踏』では「此学問(古学)、ちかき世に始まれり」とて先ず契沖・羽倉ハグラ大人(春満
)・県居(真淵)と学統を示す。契沖には道についての著述はなく「哥書に限りてはあれ
ど、此道すぢを開きそめたり」(初山踏)。
 春満は、「古語に通ぜざれば、則ち古義明かならず、古義明かならざれば、則ち古学
復せず」(創倭学校啓・原漢文)。春満によって示された方法論は真淵に継承され、「先
マヅいにしへの歌を学びて いにしへの風の歌をよみ 次にいにしへの文を学びて古風の
文をつらね 次に古事記をよくよみ 次に日本紀をよくよみ・・・・・・古事古言の残れるを
とり・・・・・・皇朝のいにしへを尽くして後に神代の道をはうかがひつくし さてこそ天地
に合カナひて御代を治めませしいにしへの神皇の道をも知得へきなり」(にひまなび)。
道とは「御代を治め」る天皇の道、御統治マツリゴトである。
 
 宣長は、同じ道統を発展させたことは申すまでもない。道を論じた『直毘霊ナオビノミタマ
』で、先ず老荘の説く無為自然・虚無恬淡テンタンの道とは違う点を次のように説く(宣長の
説く道は老荘のそれと同一との批判がある)。道とは高御産巣日神の御霊により、伊邪
那岐・伊邪那美大神に始まって、天照大御神が承け皇孫に伝えた道で、従って神の道と云
う。神道の語の初見は、用明天皇紀である。ここは「神をいつき祭りたまふ」意、孝徳
天皇紀の分注の惟神者云々十三字は、皇国の道を「広くさしていへる」ので結局は「一
ツむね」同意である、と説く。次に、人の道とは何か。「そもそも 人としては、いか
なる者も、人の道をしらでは有アルべからず。」「道といふ物は、上カミに行ひ給ひて、下
へは上より敷キ施し給ふもの。」「道は天皇の天下を治めさせ給ふ 正大公共の道。」
「すべて下なる者は、よくてもあしくても、その時々の上の掟のまゝに、従ひ行ふぞ、
即チ古の道の意には有ける」(初山踏)。宣長の学説への批判はここに見られるが、宣
長の立場から、天皇は天照大御神の御子である、たとえよかれと信じて、中国の如く易
姓革命を認めて「善く坐サむ」天皇には従ひ、「悪く坐サむ」天皇には逆き乃至は新に
天皇を擁立したとしても、中国の歴史を見ると、理想の人としての聖人とても「ただ賊
の為シとげたる者」(勝てば官軍の意味)に過ぎぬ。そこで、世代の交替はあるも内容的
には決して善くはならない、これが宣長の易姓革命観否定の根拠である。
 
 傍ら天照大神の子孫としての天皇への絶対的な信頼感・振興があって、この信仰が中枢
となり、徳川氏と雖も天皇の勅命を承けて政治の直接の責任者となった以上は、太陽の
恵みの普く平等に注ぐ如く、国民に対して、天皇の大御心の代行者として当たるに違い
ないとの幕府の肯定が生まれた、と言える。天皇の輔翼者は又は代行者としての政治に
預かる大臣・幕府の人々は、何時でも大御心を体して国民に臨み政治を執っているとは言
えぬが、究極においては大綱は謬ることはない、と確信し、この確信は更に天壌無窮の
発展史観に支えられ、且つ皇室の国民に対しての仁慈の歴史的事実によって一段と実証
的に強められたと言える。
 
 篤胤も、古道の説明に(国学者は一般に、神道の語を避け、古道・大道等の語を用いた
)「謂ユル天下ノ大道デ則人ノ実とデアル」(古道大意 上巻)。「真実の神道と申候
は、前に申候通り、神国の神国たる御国体を知り、神の成ナシ置玉へる事を習ひ学びて、
正き人の道を行ひ候を、実の神道と称し候。すべて世の忠臣孝子、其外、人の道を外れ
ざる者は、皆真の神道に候」「真実の神道は格別にて、天下の正道を学び候故に、是を
大道之学問、顕幽無敵の道と称し候」(大道或問)。
 
△因みに「学派神道」とは
 学派神道とは、諸神道の中の一で、理論神道とも云う。神職に限らず、古典や祭祀を
中心に神道の理論化・体系化を目指し集団をなす学者の説いた神道説である。神道の分類
も、角度によっていろいろなされる。(一)神社神道、(二)皇室神道(含家庭神道)、
(三)教派神道、(四)学派神道、(五)常民信仰(民間神道)に分けられる。
 皇大神宮関係は、平安初期から諸社では引き続いて漸次、祀職の間で、神社の起原・神
徳等を間接・直接に記することが始まった。いわばこれらは、社例伝記の神道と分類され
るものである。この傾向を先駆とし、平安末・中世初期には先ず、伊勢神宮の外宮の祠官
の間から、記紀・神宮所伝の古書・神託或は儒書を資料として、意識的に神宮の起原・神徳
を体系・組織的に説くことが試みられ、ここに学派神道の先鞭を付けたと言える。吉田・
忌部・垂加・復古神道等の一連の学派神道は、斯くて次第に成立する。

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