24 哲学のすすめ[哲学は個人生活をどう規定するか]
参考:講談社発行「哲学のすすめ」
〈「幸福」と云う常識的な哲学〉
△常識に頼って何故悪いか
我々が生きて行くために人生観を必要とする以上、哲学は必要であるかも知れないが、
しかし少なくとも我々が常識人として生きて行こうとするならば、特に哲学を改めて考
えなくても、常識的な人生観に頼っていればそれで十分なのではないか、そして現代の
常識的な人生観は、人間の幸福を目標として生きることなのではないだろうか、と云う
疑問が生じます。
「人間の生活にとって一番必要なものは何か」と問われれば、大多数の人が「幸福」
と答えるでしょう。そして「幸福」と云う考え方が、特にいけないと云う理由もありま
せん。
△常識は決してはっきりしたものではない
例えば、我々は通常、憲法などは「常識的に」理解していると思っています。しかし
もし憲法の一つ一つの条文について、詳しく説明を求められたらどうでしょう。我々は
「常識的に」理解していると思っていたことは、実際は極めて曖昧な理解しか持ってい
ないと気付きます。
また「幸福とは何か」との問いにも、はっきりと答えれないのではないでしょうか。
私は「幸福」は、その人の哲学によって決まると思います。以下、この点について少し
考えてみましょう。
〈幸福と快楽〉
△幸福と快楽は同じか
「幸福とは快楽だ」とか、「快楽のない生活は幸福ではない」などは、我々の常識的
な考え方です。
「幸福は快楽である」と云うことが意味を持つためには、快楽と云う言葉が、幸福と
云う言葉とは違った意味を持たなければなりません。
それでは快楽とは何でしょう。常識的には「感覚的な欲望の満足によって得られるも
の」で、具体的には、「旨いものを食べ、良い着物を着て、好きなことをするが快楽で
ある」となります。
しかし我々は本当に「幸福は快楽である」と断言出来るでしょうか。幸福とは本当に
快楽と同じものなのでしょうか。
△エピクロスの快楽主義
ギリシャ末期の哲学者エピクロス(紀元前341〜270)は快楽主義者として有名です。
彼は幸福は快楽と同じであると考えました。快楽には瞬間的な快楽と永続的な快楽ある
と言います。
例えば旨いものを食べると快楽を感ずるのは感覚的快楽で、それは一時的なものと云
い、旨いものを食べ過ぎると後でかえって不快を感じます。また、旨いものを食べるの
に慣れると、もっと旨いものを食べたくなります。その「もっと旨いもの」が入手出来
ないと矢張り不快を感じます。
そこで彼は、生涯に亘って永続するような快楽を求める必要があると言います。永続
的な快楽を得ようとするには、積極的に快楽を追求しないことで、いかなる事態に直面
しても、それによって心を乱し、不快を感ずることのないような平静な心を持つ必要が
あると言います。エピクロスは快楽主義者ですが、決して禁欲主義者ではありません。
△エピクロスの教えるもの
エピクロスは幸福とは快楽であると考えました。しかし彼の到達した結論は、真の快
楽は寧ろ快楽を追求しないことによって得られると云うことです。この真の快楽、つま
り何物によっても乱されない平静な心によって感ぜられる「快楽」は、快楽と呼ぶより
は、寧ろ「幸福」と呼ぶべきなのです。実は幸福とは快楽と全く異なるものである、と
云う考えに到達したのでした。
〈快楽の質の問題〉
△近世の快楽主義
我々が快楽に積極的な意義を認めるようになったのは、近世になってからです。人間
はこの現実的生活を本当に重んずるようになり、この世での幸福を考えるようになりま
した。それ故、快楽が即ち幸福である、と考える思想が強くなってきました。
△ベンサムの功利主義
功利主義者のベンサム(1748〜1832)は、功利とは幸福へ導くための手段としての有
用性であると言います。幸福とは快楽であり、つまり快楽を得るために有用であるかど
うかを規準として、我々は行為を選ぶべきだと云うことです。「最大多数の最大幸福」
の立場に立つと、次のような問題が生じました。快楽にはいろいろな種類があるが、そ
れらの異なった快楽を比較し、どれが最大の快楽であるか、と云うことです。ベンサム
はこれに、「快楽はその強度とか持続性とかを尺度として、全く量的に比較することが
出来る」と主張しました。
しかし、例えば旨いものを食べて感ずる快楽と、良い音楽を聴いて感ずる快楽とをど
のようにして比較するのでしょうか。単に快楽を幸福と同一視するベンサムの理論は、
一つの難点を暴露しました。
△満足した豚より不満足な人間に
ベンサムの思想を継いで発展させたジョン=スチュアート=ミル(1806〜1873)は、快
楽の質の相違を採用しました。「満足した豚よりも、不満足な人間になることの方が良
いことであり、満足した愚か者よりも、不満足なソクラテスになることの方が良いこと
である」と。ミルによれば快楽は、動物でも感ずるような低級な感覚的快楽よりも、人
間のみの持っている高級な能力を用いることによって得られる快楽の方が、遥かに望ま
しいものであり、従って我々はこのような高級な快楽を目指さなければならない、と言
います。
△質の高下はどうして決められるか
功利主義は、幸福と快楽は同じであると考えることによって成立します。もし低級な
快楽よりも、高級な快楽を目指すべきだとしますと、幸福とは単なる快楽ではなく、快
楽とは別物となります。
また、たとえ他の人々が総て高級な快楽を選び、自分一人が低級な快楽を選んだとし
ても、何等差し支えない、とも思われますが。
さて幸福とは、ミルは高級な快楽、ベンサムは永続的な快楽と考えましたが、このこ
とは高級な快楽は大体において永続的なものとなります。
△「幸福」と云うものの曖昧さ
このように幸福とは快楽と同じではないことを知りました。
つまり、「幸福とは何であるか」の問いに対しては、だれも納得するような答えを与
えることは出来ないことになりました。
このように幸福の内容は、人によって異なります。そして私は、幸福に対する考え方
が異なっていることが、各人の持っている哲学なのです、と思います。
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