96a 歴代天皇
 
 96 後醍醐天皇(その二)
 
 人は昔をわするゝものなれども、天は道をうしなはざるなるべし。さらば、など天は
正理シャウリのまゝにおこなはれぬといふこと、うたがかはしけれど、人の善悪はみづから
の果報なり。世のやすからざるは時の災難なり。天道も神明もいかにともせぬことなれ
ど邪ヨコシマなるものは久しからずしてほろび、乱たる世も正シャウにかへる、古今の理なり。
これをよくわきまへしるを稽古と云。昔人をえらびもちいられし日は先徳行をつくす。
徳行おなじければ、才用サイヨウあるをもちいる。才用ひとしければ労効ラウカウあるをとる。
又徳義・清慎・公平クビョウ・恪勤カクゴンの四善をとるとも見えたり。格条キャクデウには「朝アシタ
に廝養シヤウたれども夕ユフベに公卿コウケイにいたる。」といふことの侍るも、徳行才用により
て不次フジにもちいらるべき心なり。寛弘よりあなたには、まことに才かしこければ、種
姓シュシャウにかゝはらず、将相シャウシャウにいたる人もあり。寛弘以来は、譜第をさきとして、
其中に才もあり徳も有て、職にかなひぬべき人をぞえらばれける。世のすゑに、みだり
がはしかるべきことをいましめらるゝにやありけむ、「七ケ国の受領をへて、合格して
公文クモンといふことかんがへぬれば、参議に任ず。」と申ならはしたるを、白河の御時、
修理のかみ顕季アキスエといひし人、院の御めのとの夫ヲットにて、時のきら並ナラブ人なかりし
が、この労をつのりて参議を申けるに、院の仰に、「それも物かきてのうへのこと」と
ありければ、理にふしてやみぬ。此人は哥道などもほまれありしかば、物かゝぬ程のこ
とにやはあるべき。又参議になるまじきほどの人にもあらじなれど、和漢の才学のたら
ぬにこそ有けむ。白河の御代まではよく官をおもくし給けりと聞えたり。あまり譜第を
のみとられても賢才のいでこぬはしなれば、上古にをよびがたきことをうらむるやから
もあれど、昔のまゝにてはいよいよみだれぬべければ、譜第をおもくせられけることは
りなり。但才もかしこく徳もあらはにして、登用せられんに、人のそしりあるまじき程
の器ならば、今とてもかならず非重代ヒヂュウダイによるまじき事とぞおぼえ侍る。其道に
はあらで、一旦の勲功など云ばかりに、武家代々ダイダイの陪臣をあげて高官を授られん
ことは、朝議のみだりなるのみならず、身のためもよくつゝしむべきこととぞおぼえ侍
る。もろこしにも、漢高祖はすゞろに功臣を大に封じ、公相コウシャウの位をも授しかば、は
たして奢ぬ。奢ればほろぼす。よりて後には功臣のこりなくなりにけり。後漢の光武
クワウブはこの事にこりて、功臣に封爵ホウシャクをあたへけるも、其首シュたりし登(登+邑
オオザト)禹トウウすら封ぜらるゝ所四県にすぎず。官を任ずるには文吏ブンリをもとめえらび
て、功臣をさしをく。是によりて二十八将の家ひさしく伝て、むかしの功もむなしから
ず。朝テウには名士おほくもちいられて、曠官クワウクワンのそしりなかりき。彼二十八将の中
にも登(登+邑オオザト)禹と賈復カフクとはそのえらびにあづかりて官にありき。漢朝の昔
だに文武の才をそなふることいとありがたく侍りけるにこそ。次に功田コウデンと云こと
は、昔は功のしなにしたがひて大・上・中・下の四の功を立て田をあかち給き。其数スウみな
さだまれり。大功は世々にたえず。其下つかたは或は三世につたへ、孫子につたへ、身
にとゞまるもあり。天下を治と云ことは、国郡を専にせずして、そのこととなく不輸フユ
の地をたてらるゝことのなかりしにこそ。国に守カミあり、郡コホリに領リャウあり、一国のう
ち皆国命のしたにておさめし故に法にそむく民なし。かくて国司の行迹カウセキをかむがへ
て、賞罰ありしかば、天下のこと掌をさしておこなひやすかりき。其中に諸院・諸宮に御
封ミフあり。親王・大臣も又かくのごとし。其外官田クワンデン・職田ショクデンとてあるも、みな
官符を給て、其所の正税シャウゼイをうくるばかりにて、国はみな国司の吏務なるべし。但
大功の者ぞ今の庄園などとて伝がごとく、国にいろはれずしてつたへける。中古となり
て庄園おほくたてられ、不輸の所いできしより乱国とはなれり。上古にはこの法よくか
たかりければにや、推古点の御時、蘇我大臣「わが封戸フコをわけて寺によせん」と奏せ
しをつゐにゆるされず。光仁天皇は永ナガク神社・仏寺によせられし地をも「永の字は一代
にかぎるべし。」とあり。後三条院の御世こそ此ついえをきかせ給て、記録所ををかれ
て国々の庄公シャウコウの文書モンジョをめして、おほく停廃チャウハイせられしかど、白河・鳥羽の
御時より新立シンリフの地いよいよおほくなりて、国司のしり所百分が一に成ぬ。後ざまに
は、国司任におもむくことさへなくて、其人にもあらぬ眼代ガンダイをさして国をおさめ
しかば、いかでか乱国とならざらん。況や文治のはじめ、国に守護職を補フし、庄園・郷
保ガウホウに地頭ををかれしよりこのかたは、さらに古のすがたと云ことなし。政道をおこ
なはるゝ道、ことごとく絶はてにき。
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