96 歴代天皇
96 後醍醐ゴダイゴ天皇(その三)
たまたま一統の世にかへりぬれば、この度ぞふるき費ツイエをもあらためられぬべかりし
かど、それまではあまさへのことなり。今は本所ホンジョの領と云し所々さへ、みな勲功に
混ぜられて、累家ルイケもほとほと其名ばかりになりぬるもあり。これみな功にほこれる
輩、君をおとし奉るによりて、皇威もいとゞかろくなるかと見えたり。かゝれば其功な
しといへども、ふるくより勢イキオイある輩をなつけられんため、或は本領なりとてたまは
るもあり、或は近境キンケイなりとてのぞむもあり、闕所ケッショをもておこなはるゝにたらざ
れば、国郡につきたりし地、もしは諸家相伝の領までもきそひ申けりとぞ。おさまらん
としていよいよみだれ、やすからんとしてますますあやうくなりにける末世のいたりこ
そまことにかなしく侍れ。
凡オヨソ王土にはらまれて、忠をいたし命をすつるは人臣の道なり。必ずこれを身の高名
とおもふべきにあらず。しかれども後の人をはげまし、其あとをあはれみて賞せらるゝ
は、君の御政なり。下としてきほひあらそひ申べきにあらぬにや。ましてさせる功なく
して過分の望をいたすこと、みづからあやぶむるはしなれど、前車の轍をみることはま
ことに有がたき習なりけむかし。中古までも人のさのみ豪強なるをばいましめられき。
豪強になりぬればかならずをごる心有。はたして身をほろぼし、家をうしなふためしあ
れば、いましめらゝも理なり。鳥羽院の御代にや、諸国の武士の源平の家に属すること
をとゞむべしと云制符セイフたびたびありき。源平ひさしく武をとりてつかへしかど、事あ
る時は、宣旨を給て諸国の兵をめしぐしけるに、近代となりてやがて肩をいるゝ族ヤカラお
ほくなりにしよりて、此制符はとださりき。はたして、今でも乱世の基なれば、云かひ
なきことになりにけり。
此比コノゴロのことわざには、一たび軍にかけあひ、或は家子イヘノコ郎従ラウジュウ節にしぬる
たぐひもあれば、「わが功にをきては日本国を給、もしは半国を給てもたるべからず。
」など申める。まことにさまでおもふことはあらじなれど、やがてこれよりみだるゝ端
ともなる。又朝威のかろがろしさもをしはからるゝものなり。「言語ゲンギョは君子の枢
機なり。」といへり。あからさまにも君をなひがしろにし、人におごることもあるべか
らぬことにこそ。さきにしるしはべりしごとく、かたき氷は霜をふむよりいたるならひ
なれば、乱臣賊子といふものは、そのはじめ心ことばをつゝしまざるよりいでくるなり。
世の中のおとろふると申は、日月の光のかはるにもあらず、草木の色のあらたまるにも
あらじ。人の心のあしくなり行を末世マツセとはいへるにや。昔許由キョイウと云人は帝尭の国
を伝んとありしをきゝて、潁川エイセンに耳をあらひき。巣父サウフはこれをきゝて此水をだに
きたながりてわたらず。其人の五臓ゴザウ六腑ロクフのかはるにはあらじ、よくおもひなら
はせる故にこそあらめ。猶行すゑの人の心おもひやるこそあさましけれ。大方をのれ一
身は恩にほこるとも、万人のうらみをのこすべきことをばなどかかへりみざらん。君は
万姓バンセイの主アルジにてましませば、かぎりある地をもて、かぎりなき人にわたせ給はむ
ことは、をしてもはかりたてまつるべし。一国づつをのぞまば、六十六人にてふさがり
なむ。一郡づつといふとも、日本は五百九十四郡こそあれ、五百九十四人によろこぶと
も千万の人は不悦ヨロコバジ。日本の半ナカバを心ざし、皆ながらのぞまば、帝王はいづくを
しらせ給べきにか。かゝる心のきざしてことばにもいでおもてには恥ハヅる色のなきを謀
叛ムホンのはじめといふべき也。昔の将門は比叡山にのぼりて、大内ダイダイを遠見して謀叛
をおもひくはたてけるも、かゝるたぐひにや侍けむ。昔は人の心の正くて将門に見もこ
り、きゝもこりけむ。今は人々の心かくのみなりにたれば、此世はよくおとろへぬるに
や。漢高祖の天下をとりしは蕭何セウカ・張良チャウリャウ・韓信カンシンがちからなり。これを三傑と
云。万人にすぐれたるを傑と云とぞ。中にも張良は高祖の師として、「はかりことを帷
帳イチャウの中にめぐらして、勝ことを千里の外ホカに決するはこの人なり。」との給しかど、
張良はおごることなくして、留リウといひてすこしきなる所をのぞみて封ぜられにけり。
あらゆる功臣おほくほろびしかど、張良は身をまたくしたりき。ちかき代のことぞかし、
頼朝の時までも、文治の比にや、奥の泰衡ヤスヒラを追討せしに、みづからむかふことあり
しに、平重信シゲノブが先陣にて其功すぐれたりければ、五十四郡の中ウチに、いづくをも
のぞむべかりけるに、長岡の郡とてきはめたる小所をのぞみ給にけるとぞ。これは人々
にひろく賞をもおこなはしめんがためにや。かしこかりけるおのこにこそ。又直実ナホザネ
といひける者に一所イッショをあたへたまふ下文クダシブミに、「日本第一の甲カフの者なり。」
と書て給てけり。一とせ彼下文を持て奏聞する人の有けるに、褒美の詞コトバのはなはだ
しさに、あたへたる所のすくなさ、まことに名をおもくして利をかろくしける、いみじ
きことと口々にほめあへりける。いかに心えてほめけむといとおかし。是までの心こそ
なからめ、事にふれて君をおとし奉り、身をたかくする輩のみ多くなれり。ありし世の
東国の風儀フウギもかはりはてぬ。公家のふるきすがたもなし。いかになりぬる世にかと
なげき侍る輩もありと聞えしかど、中ナカ一とせばかりまことに一統のしるしとおぼえて、
天の下こぞり集て都の中はへばえしくこそ侍りけれ。
建武乙亥の秋の比、滅にし高時が余類ヨルイ謀叛をおこして鎌倉にいりぬ。直義タダヨシは
成良ナリヨシの親王をひきつれ奉て参河ミカハノ国までのがれにき。兵部卿ヒャウブギャウ護良モリヨシノ
親王ことありて鎌倉におはしましけるをば、つれ申にをよばずうしなひ申てけり。みだ
れの中なれど、宿意シュクイをはたすにやありけむ。都にも、かねて陰謀の聞えありて嫌疑
せられける中に権大納言公宗卿キンムネノキャウ召をかれしも、このまぎれに誅せらる。承久よ
り関東の方人カタウドにて七代になりぬるにや。高時も七代にて滅ぬれば、運のしからしむ
ることとはおぼゆれど、弘仁の死罪をとめられて後、信頼が時にこそめづらかなること
に申はべりけれ。戚里セキリのよせも久しくなり大納言以上にいたりぬるに、おなじ死罪な
りともあらはならぬ法令ハフリャウもあるに、うけ給おこなふ輩のあやまりなりとぞ聞えし。
高氏は申うけて東国にむかひけるが、征夷将軍ならびに諸国の惣追捕使ソウツイブシを望け
れど、征東将軍になされて悉くはゆるされず。程なく東国はしづまりけれど、高氏のぞ
む所達せずして、謀叛をおこすよし聞えしが、十一月十日あまりにや、義貞を追討すべ
きよし奏したてまつり、すなはち討手のぼりければ、京中騒動す。追討のために、中務
卿尊良タカヨシノ親王を上将軍ジャウシャウグンとして、さるべき人々もあまたつかはさる。武家に
は義貞朝臣をはじめておほくの兵をくだされしに、十二月に官軍ひきしりぞきぬ。関々
をかためられしかど、次の年丙子の春正月十日官軍又やぶれて朝敵すでにちかづく。よ
りて比叡山東坂本に行幸して、日吉社にぞましましける。内裏もすなはち焼ぬ。累代の
重宝もおほくうせにけり。昔よりためしなきほどの乱逆ランゲキなり。
[次へ進んで下さい]