78 歴代天皇
78 二条ニジョウ天皇
平安後期の天皇。後白河天皇の第一皇子。名は守仁モリヒト。六条天皇に譲位。二条の皇
居で没す。治世中、父上皇が院政。
(在位1158〜1165)(1143〜1165)
平治ヘイジ 皇紀1819 AD1159
永暦エイリャク 皇紀1820 AD1160
応保オウホウ 皇紀1821 AD1161
長寛チョウカン 皇紀1823 AD1163
永万エイマン 皇紀1825 AD1165
〔神皇正統記〕 第七十八代、二条院。諱は守仁モリヒト、後白河の太子。御母贈皇太后藤
原懿子イシ、贈太政大臣経実ツネザネの女也。戊寅の年即位、己卯に改元。年号を平治と云。
右衛門督ウエモンノカミ藤原信頼ノブヨリと云人あり。上皇いみじく寵チョウせさせ給て天下のこと
をさへまかせらるゝまで成にければ、おごりの心きざして近衛ノ大将をのぞみ申しを通憲
法師いさめ申てやみぬ。其時源義朝朝臣が清盛朝臣におさへられて恨をふくめりけるを
あひかたらひて叛逆ホンギャクを思オモヒくはたてけり。保元の乱には、義朝が功たかく侍けれ
ど、清盛は通憲法師が縁者になりてことのほかにめしつかはる。通憲法師・清盛等をうし
なひて世をほしきまゝにせんとぞはからひける。清盛熊野にまうでけるひまをうかゞひ
て、先マヅ上皇御坐の三条殿と云所をやきて大内ダイダイにうつし申、主上をもかたはらに
をしこめたてまつる。通憲法師のがれがたくやありけむ、みづからうせぬ。其子どもや
がて国々へながしつかはす。通憲も才学あり、心もさかしかりけれど、をのれが非をし
り、未萌ミバウの禍ワザハヒをふせぐまでの智分チブンやかけたりけむ。信頼が非をばいさめ申
けれど、わが子どもは顕職ケンショク・顕官ケンクワンにのぼり、近衛の次将なむどにさへなし、参
議已上イジャウにあがるものありき。かくてうせにしかば、これも天意にたがふ所ありと云
ことは疑なし。清盛このことをきゝ、道よりのぼりぬ。信頼かたらひをきける近臣等の
中に心がはりする人々ありて、主上・上皇をしのびていだしたてまつり、清盛が家にうつ
し申てけり。すなはち信頼・義朝等を追討せらる。程なくうちかちぬ。信頼はとらはれて
首カウベをきらる。義朝は東国へ心ざしてのがれしかど、尾張国にてうたれぬ。その首を
梟ケウせられにき。
義朝重代の兵ツハモノたりしうへ、保元の勲功すてられがたく侍しに、父の首をきらせた
りしこと大なるとがなり。古今にもきかず、和漢にも例なし。勲功に申替マヲシカフともみづ
から退シリゾクとも、などか父を申たすくる道なかるべき。名行メイカウかけはてにければ、い
かでかつゐに其身をまたくすべき。滅することは天の理コトワリなり。凡かゝることは其身
のとがはさることにて、朝家テウケの御あやまりなり。よく案あるべかりけることにこそ。
其比名臣もあまたありにしや、又通憲法師専モハラ申をこなひしに、などか諌イサメ申ざりけ
る。大義に親シンを滅すト云ことのあるは、石昔(石偏+昔)セキシャクと云人其子をころした
りしがことなり。父として不忠の子をころすはことはりなり。父不忠なりとも子として
ころせと云道理なし。孟子にたとへを取ていへるに、「舜の天子たりし時、其父瞽叟コソウ
人をころすことあらんを、時の大理なりし皐陶カウエウとらへたらば舜はいかゞし給べきと
いひけるを、舜は位をすてて父をおひてさらまし。」とあり。大賢のをしへなれば忠孝
の道あらはれておもしろくはべり。保元・平治より以来、天下みだれて、武用ブヨウさかり
に王位かろくなりぬ。いまだ太平の世にかへらざるは、名行のやぶれそめしによれるこ
ととぞ見えたる。
かくてしばししづまれりしに、主上・上皇御中あしくて、主上の外舅ハハカタノヲヂ大納言経
宗ツネムネ(後にめしかへされて、大臣対象までなりき)・御めのとの子別当惟方コレカタ等上皇
の御意にそむきければ、清盛朝臣におほせてめしとらへられ、配所につかはさる。これ
より清盛天下の権をほしきまゝにして、程なく太政大臣にあがり、其子大臣大将になり、
あまさへ兄弟左右の大将にてならべりき(この御門の御世のことならぬもあり。つゐで
にしるしのす)。天下の諸国は半ナカバすぐるまで家領ケリャウとなし、官位は多く一門家僕
カボクにふさげたり。王家ワウカの権さらになきがごとくになりぬ。
此天皇天下を治給こと七年。二十三歳おましましき。
79 六条ロクジョウ天皇
平安末期の天皇。二条天皇の第二皇子。名は順仁ノブヒト。2歳で即位、高倉天皇に譲位。
(在位1165〜1168)(1164〜1176)
仁安ニンアン 皇紀1826 AD1166
〔神皇正統記〕 第七十九代、六条院。諱は順仁ノブヒト、二条の太子。御母大蔵少輔セイ
伊岐イキノ兼盛カネモリが女也(そのしないやしくて、贈位までもなかりしにや)。乙酉の年即
位、丙戌に改元。
天下を治給こと三年。上皇世をしらせ給しが、二条の御門の御ことにより心よからぬ
御ことなりしゆへにや、いつしか譲国の事ありき。御元服などもなくて、十三歳にて世
をはやくしましましき。
80 高倉タカクラ天皇
平安末期の天皇。後白河天皇の第七皇子。名は憲仁ノリヒト。在位中は平清盛が執政。安
徳天皇に譲位。
(在位1168〜1180)(1161〜1181)
嘉応カオウ 皇紀1829 AD1169
承安ショウアン 皇紀1831 AD1171
安元アンゲン 皇紀1835 AD1175
治承ジショウ 皇紀1837 AD1177
〔神皇正統記〕 第八十代、第四十三世、高倉院。諱は憲仁ノリヒト、後白河第五の御子。
御母皇后平滋子シゲコ(建春ケンシュン門院と申)、贈左大臣時信トキノブの女也。戊子の年即位、
己丑に改元。上皇天下をしらせ給こともとのごとし。
清盛権をもはらにせしことは、ことさらに此御代のことなり。其女徳子トクコ入内ジュダイ
して女御ニョウゴとす。即立后リッコウありき。すゑつかたやうやう所々に反乱の聞えあり。清
盛一家非分のわざ天意にそむきけるにこそ。嫡子内大臣重盛シゲモリは心ばへさかしくて、
父の悪行などもいさめとゞめけるさへ世をはやくしぬ。いよいよをごりをきはめ、権を
ほしきまゝにす。時の執柄にて菩提院ボダイインの関白基房モトフサの大臣おはせしも、中らい
よろしからぬことありて、太宰ダザイノ権帥ゴンノソツにうつし配流ハイルせらる。妙音院メウオンイン
の師長モロナガのおとゞも京中をいださる。その外につみせらるゝ人おほかりき。従三位源
頼政ヨリマサと云しもの、院の御子以仁モチヒトの王とて元服ばかりし給しかど、親王の宣など
だになくて、かたはらなる宮おはせしをすゝめ申て、国々にある源氏の武士等にあひふ
れて平氏をうしなはむとはかりけり。ことあらはれて皇子もうしなはれ給ぬ。頼政もほ
ろびぬ。かゝれど、それよりみだれそめてけり。義朝朝臣が子頼朝(前右兵衛佐
ウヒャウエノスケ従五位下、平治の比六位の蔵人クラウドたりしが、信頼事をおこしける時任官すと
ぞ)平治の乱に死罪を申なだむ人ありて、伊豆国に配流せられて、おほくの年ををくり
しが、以仁の王の密旨ミッシをうけ給、院よりも忍て仰つかはす道ありければ、東国をすゝ
めて義兵をおこしぬ。清盛いよいよ悪行をのみなしければ、主上ふかくなげかせ給。俄
に避位ヒイのことありしも世をいとはせましましけるゆへとぞ。
天下を治給こと十二年。世の中の御いのりにや、平家のとりわきあがめ申神なりけれ
ば、安芸の厳島イツクシマになむまいらせ給ける。此御門御心ばへもめでたく孝行の御志ふか
ゝりき。管弦のかたもすぐれておはしましけり。尊号ありてほどなく世をはやくし給。
二十一歳おましましき。
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