74 歴代天皇
74 鳥羽トバ天皇
平安後期の天皇。堀河天皇の第一皇子。名は宗仁ムネヒト。崇徳天皇に譲位、1129年(大
治4)白河法皇の後を受けて三代28年間院政。崇徳上皇らを排斥。
(在位1107〜1123)(1103〜1156)
天仁テンニン 皇紀1768 AD1108
天永テンエイ 皇紀1770 AD110
永久エイキュウ 皇紀1773 AD1113
元永ゲンエイ 皇紀1778 AD1118
保安ホウアン 皇紀1780 AD1120
〔神皇正統記〕 第七十四代、第四十一世、鳥羽院。諱は宗仁ムネヒト、堀川第一の子。御
母贈藤原茨子ジシ、贈太政大臣実季サネスエの女也。丁亥の年即位、戊子に改元。
天下を治給こと十六年。太子に譲て尊号あり。
白河代をしらせ給しかば、新院とて所々の御幸ゴカウにもおなじ御車にてありき。雪見
の御幸の日御烏帽子直衣ナホシにふか沓グツをめし、御馬にて本院の御車のさきにましまし
ける、世にめづらかなる事なればこぞりてみたてまつりき。昔弘仁の上皇、嵯峨の院に
うつらせ給し日にや、御馬にてみやこよりいでさせまして宮城の内をもとをらせ給へり
といふことの見え侍し、かやうの例にやありけむ。御容儀めでたくましましければ、き
らをもこのませ給けるにや、装束のこわくなり烏帽子のひたいなんど云ことも其比より
出来にき。花園の有仁アリヒトのおとゞ又容儀ある人にて、おほせあはせて上下おなじ風に
なりけるとぞ申める。
白河院かくれ給て後、政をしらせ給。御孫ながら御子の儀なれば、重服ヂュウブクをきさ
せ給けり。これも院中にて二十余年、そのあひだに御出家ありしかど、猶世をしらせ給
き。されば院中のふるきためしには白河・鳥羽の二代を申侍なり。五十四歳おましまし
き。
75 崇徳ストク天皇
平安後期の天皇。鳥羽天皇の第一皇子。名は顕仁アキヒト。初め讃岐院。父上皇より譲位
させられ、新院と呼ばれる。保元の乱に敗れ、讃岐国に配流、同地で没す。
(在位1123〜1141)(1119〜1164)
天治テンジ 皇紀1784 AD1124
大治ダイジ 皇紀1786 AD1126
天承テンショウ 皇紀1791 AD1131
長承チョウショウ 皇紀1792 AD1132
保延ホウエン 皇紀1795 AD1135
永治エイジ 皇紀1801 AD1141
〔神皇正統記〕 第七十五代、崇徳院。諱は顕仁アキヒト、鳥羽第二の子。御母中宮藤原璋
子シャウシ(待賢タイケン門院と申)、入道大納言公実キンザネの女也。癸卯の年即位、甲辰に改
元。戊申年、宋欽宗皇帝靖康セイカウ三年にあたる。宋の政みだれしより北狄ホクテキの金国
キンコク起て上皇徽宗キソウ并に欽宗をとりて北にかへりぬ。皇帝高宗江をわたりて杭州カウシウと
云所に都をたてて行在所アンザイショとす。南渡ナントと云はこれなり。
此天皇天下を治給こと十八年。上皇と御中らひ心よからでしりぞかせ給き。保元ホウゲン
に、事ありて御出家ありしが、讃岐国にうつされ給。四十六歳おましましき。
76 近衛コノエ天皇
平安後期の天皇。鳥羽天皇の第九皇子。名は体仁ナリヒト。鳥羽法皇が院政。
(在位1141〜1155)(1139〜1155)
康治コウジ 皇紀1802 AD1142
天養テンヨウ 皇紀1804 AD1144
久安キュウアン 皇紀1805 AD1145
仁平ニンペイ 皇紀1811 AD1151
久寿キュウジュ 皇紀1814 AD1154
〔神皇正統記〕 第七十六代、近衛院。諱は体仁ナリヒト、鳥羽第八の子。御母皇后藤原得
子トクコ(美福ビフク門院と申)、贈左大臣長実ナガザネの女也。辛酉年即位、壬戌に改元。
天下を治給こと十四年。十七歳にて世をはやくしましましき。
77 後白河ゴシラカワ天皇
平安後期の天皇。鳥羽天皇の第四皇子。名は雅仁マサヒト。即位の翌年、保元の乱が起る。
二条天皇に譲位後、五代34年にわたって院政。1169年(嘉応1)法皇となり、造寺・造仏
を盛んに行い、今様を好んで「梁塵秘抄」を撰す。
(在位1155〜1158)(1127〜1192)
保元ホウゲン 皇紀1816 AD1156
〔神皇正統記〕 第七十七代、第四十二世、後白河院。諱は雅仁マサヒト、鳥羽第四の子。
崇徳同母の御弟也。近衛は鳥羽の上皇鍾愛ショウアイの御子也しに、早世しましましぬ。崇徳
の御子重仁シゲヒト親王つがせ給べかりしに、もとより御中よからでやみぬ。上皇おぼしめ
しわづらひけれど、この御門たゝせ給。立太子もなくてすぐにゐさせ給。今は此御末の
みこそ継体し給へばしかるべき天命とぞおぼえ侍る。乙亥の年即位、丙子に改元。年号
を保元と云。鳥羽晏駕アンカありしかば天下をしらせ給。
左大臣頼長と聞えしは知足院チソクイン入道関白忠実タダザネの次郎也。法性寺ホフシャウジ関白
忠通タダミチのおとゞ此大臣の兄にて和漢の才たかくて、久ヒサシク執柄シッペイにてつかへられ
き。この大臣も漢才はたかく聞えしかど、本性あしくおはしけるとぞ。父の愛子アイシにて
よこざまに申うけられければ、関白をおきながら藤氏の長者になり、内覧の宣旨を蒙る。
長者の他人にわたること、摂政関白はじまりては其例なし。内覧は昔醍醐の御代のはじ
めつかた、本院の大臣と菅家と政をたすけられし時、あひならびて其号ありきと申めれ
ども、本院も関白にはあらず、其例たがふにや。兄のおとゞは本性おだやかにおはしけ
れば、おもひいれぬさまにてぞすごされける。近衛の御門かくれ給しころより内覧をや
められたりしに恨をふくみ、大方天下を我まゝにとはかられけるにや、崇徳の上皇を申
すゝめて世をみだらる。父の法皇晏駕ののち七ケ日ばかりやありけむ。忠孝の道かけに
けるよと見えたり。法皇もかねてさとられしめ給けるにや、平清盛キヨモリ・源義朝ヨシトモ等に
めし仰て、内裏をまもり奉るべきよし勅命ありきとぞ。上皇鳥羽よりいで給て白河の大
炊殿オホヒドノと云所にて、すでに兵をあつめられければ、清盛・義朝等に勅て上皇の宮をせ
めらる。官軍勝にのりしかば、上皇は西山の方にのがれ、左大臣は流矢にあたりて、奈
良坂辺ホトリまでおちゆかれけるが、つゐに客死カクシせられぬ。上皇御出家ありしかど猶讃
岐にうつされ給。大臣の子共国々へつかはさる。武士どももおほく誅チュウにふしぬ。その
中に源為義タメヨシと聞えしは義朝が父也。いかなる御志かありけむ、上皇の御方にて義朝
と各別カクベツになりぬ。余の子共は父に属しけるにこそ。軍イクサやぶれて為義も出家した
りしを、義朝あづかりて誅せしこそためしなきことに侍れ。嵯峨の御代に奈良坂のたゝ
かひありし後は、都に兵革ヒャウガクといふことなかりしに、これよりみだりそめぬるも時
の運のくだりぬるすがたとぞおぼえはべる。
此君の御乳母メノトの夫ヲットにて少納言通憲ミチノリ法師と云しは、藤家の儒門ジュモンより出た
り。宏才クワウサイ博覧の人なりき。されど時にあはずして、出家したりしに、此御世にいみ
じく用られて、内々には天下の事さながらはからひ申けり。大内ダイダイは白河の御代よ
り久ヒサシク荒廃して、里内リダイにのみましまししを、はかりことをめぐらし、国のついえ
もなくつくりたてて、たえたる公事クジどもを申をこなひき。すべて京中の道路などもは
らひきよめて昔にかへりたるすがたにぞありし。
天下を治給こと三年。太子にゆづりて、例のごとく尊号ありて、院中にて天下をしら
せ給こと三十余年。そのあひだに御出家ありしかど政務はかはらず。白河・鳥羽両代のご
とし。されどうちつゞき乱世にあはせ給しこそあさましけれ。五代の帝の父祖にて、六
十六歳おましましき。
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