61a 歴代天皇
 
 62 村上ムラカミ天皇
 
 平安中期の天皇。醍醐天皇の第十四皇子。名は成明ナリアキラ。後世、天暦の治と称され
る。日記「天暦御記」。
(在位946〜967)(926〜967)
 天暦テンリャク 皇紀1607 AD 947
 天徳テントク 皇紀1617 AD 957
 応和オウワ 皇紀1621 AD 961
 康保コウホウ 皇紀1624 AD 964
 
〔神皇正統記〕 第六十二代、第三十四世、村上天皇。諱は成明ナリアキラ、醍醐十四の子。
朱雀同母の御弟也。丙午年即位、丁未に改元。兄弟相譲せ玉ひしかば、まめやかなる禅
譲の礼儀ありき。
 
 此天皇賢明の御ほまれ先皇センクワウのあとを継申させ給ければ、天下安寧なることも延喜
・延長の昔にことならず。文筆諸芸を好給こともかはりまさざりけり。よろづのためしに
は延喜・天暦の二代とぞ申侍る。もろこしのかしこき明王も二、三代とつたはるはまれな
りき。周にぞ文・武・成・康(文王は正位シャウイにつかず)、漢には文・景なむぞありがたき
ことに申ける。光孝かたはらよりえらばれ立給しに、うちつゞき明王の伝り給し、我国
の中興すべきゆへにこそ侍けめ。又継体もたゞこの一流にのみぞさだまりぬる。
 
 すゑつかた天徳年中にや、はじめて内裏に炎上ありて内侍所ナイシドコロも焼にしが、神鏡
は灰の中よりいだし奉らる。「円規エンキ損ずることなくして分明フンミャウにあらはれ出給。
見奉る人、驚感キャウカンせずといふことなし。」とぞ御記ギョキに見え侍る。「此時神鏡南殿
ナデンの桜にかゝらせ給けるを、小野宮の実頼サネヨリとおとゞ袖にうけらけたり。」と申こ
とあれど、ひが事をなん云伝侍なり。
 
 応和元年辛酉もろこしの後周滅て宋の代にさだまる。唐の後、五代、五十五年のあひ
だ彼国大オホキに乱て五姓ゴセイうつりかはりて国の主たり。五季ゴキとぞ云ける。宋の代に
賢王うちつゞきて三百二十余年までたもてりき。
 此天皇天下を治給こと二十一年。四十二歳おましましき。
 
 御子おほくましましし中に冷泉・円融は天位につき給しかば申にをよばず、親王の中に
具平トモヒラノ親王(六条の宮と申。中務卿ナカツカサノキャウに任給き。前サキに兼明カネアキラノ親王名誉
おはしき。仍是をば後ノチノ中書王と申)、賢才文芸のかた代々の御あとをよく相継申たま
ひけり。一条の御代に、よろず昔をおこし、人を用ましましければ、この親王昇殿し給
し日、清涼殿セイリャウデンにて作文ありしに(中殿の作文と云ことこれよりはじまる)「貴
ぶ所是コレ賢才。」と云題にて韻をさぐらるゝことあり。此親王の御ためなるべし。凡諸
道にあきらかに、仏法の方までくらからざりけるとぞ。昔より源氏おほかりしかども、
此御すゑのみぞいまに至るまで大臣以上に至て相継侍る。
 
 源氏と云ことは、嵯峨の御門世のついえをおぼしめして、皇子・皇孫に姓シャウを給て人
臣となし給。すなはち御子あまた源氏の姓を給る。桓武の御子葛原カヅラハラノ親王の男、高
棟タカムネノ平タヒラの姓を給る。平城の御子阿保アホノ親王の男、行平ユキヒラ・業平ナリヒラ等在原アリハラ
の姓を給ることも此後のことなれど、これはたまたまの儀なり。弘仁以後代々の御後ノチ
はみな源ミナモトノ姓を給しなり。親王の宣旨を蒙カウブる人は才不才サイフサイによらず、国々に
封戸フコなど立られて、世のついへなりしかば、人臣につらぬ宦学ミヤヅカヘシモノマナビして朝要
テウエウにかなひ、器ウツハモノにしたがひ、昇進すべき御をきてなるべし。姓を給る人は直スグ
に四位に叙す(皇子・皇孫にとりての事也)。当君のは三位なるべしと云(かゝれど其例
まれなり。嵯峨の御子大納言定サダムノ卿三位に叙せしかども、当代にはあらず)。かくて
代々のあひだ姓を給し人百十余人もやありけむ。しかれども他流の源氏、大臣以上にい
たりて二代と相続する人の今まで聞えぬこそいかなる故なるらむ、おぼつかなけれ。嵯
峨の御子姓を給人二十一人。この中ウチ、大臣にのぼる人、常トキハの左大臣兼大将、信マコト
の左大臣、融トホルの左大臣。仁明の御子に姓を給人十三人。大臣にのぼる人、多マサルの右
大臣、光ヒカルの右大臣兼大将。文徳の御子に姓を給人十二人。大臣にのぼる人、能有ヨシアリ
の右大臣兼大将。清和の御子に姓を給人十四人。大臣にのぼる人、十世の御すゑに実朝
サネトモの右大臣兼大将(これは貞純サダスミノ親王の苗裔也)。陽成の御子に姓を給人三人。
光孝の御子に姓を給人十五人。宇多の御孫に姓を給て大臣にのぼる人、雅信マサノブの左大
臣、重信シゲノブの左大臣(ともに敦実アツミノ親王の男なり)。醍醐の御子に姓を給人二十
人。大臣にのぼる人、高明タカアキラの左大臣兼大将、兼明カネアキラの左大臣(後には親王とす。
中務卿に任ず。前中書王是也)。この後は皇太子の姓を給ことはたえにけり。皇孫には
あまた有。任大臣を本ホンとしるすによりてことごとくはのせず。ちかくは後三条の御孫
に有仁アリヒトの左大臣兼大将(輔仁スケヒトノ親王の男、白河院の御猶子にて直に三位せし人な
り)二世の源氏にて大臣にのぼれり。かやうにたまたま大臣に至てもいづれか二代と相
継る。ほとほと納言ナフゴン以上までつたはれるだにまれなり。雅信の大臣の末ぞをのづか
ら納言までものぼりてのこりたる。高明の大臣の後四代、大納言にてありしもはやく絶
にき。いかにも故あることかとおぼえたり。
 
 皇胤の貴種キシュより出ぬる人、蔭ォンをたのみ、いと才なむどもなく、あまさへ人にをご
り、ものに慢ずる心もあるべきにや。人臣の礼にたがふことありぬべし。寛平の御記に
そのはしのみえはべりしなり。後をもよくかゞみさせ給けるにこそ。皇胤は誠に他にこ
となるべきことなれど、我国は神代よりの誓にて、君は天照太神の御すゑ国をたもって、
臣は天児屋の御流君をたすけ奉るべき器ウツハモノとなれり。源氏はあらたに出たる人臣な
り。徳もなく、功もなく、高官にのぼりて人にをごらば二フタハシラノ神の御とがめありぬべ
きことぞかし。なかなか上古には皇子・皇孫もおほくて、諸国にも封ホウぜられ、将相
シャウシャウにも任ぜられき。崇神天皇十年に始て四人シニンの将軍を任じて四道シダウへつかはさ
れしも皆これ皇族なり。景行天皇五十一年始て棟梁トウリャウの臣を置て武内の宿禰を任ず。
成務天皇三年に大臣オホオミとす(我朝大臣ダイジンこれに始る)。六代の朝につかへて執政
たり。此大臣も孝元の曾孫なりき。しかれど、大職冠氏ウヂをさかやかし、忠仁公政を摂
せられしより、もはら輔佐フサの器として、たちかへり、神代の幽契イウケイのまゝに成ぬる
にや。閑院の大臣オトド冬嗣氏の衰たることをなげきて、善をつみ功をかさね、神にいの
り仏に帰せられける、其しるしも相くはゝりて侍けむかし。
 
 此親王ぞまことに才もたかく徳もおはしれるにや。其子師房モロフサ姓を給て人臣に列せ
られし、才芸古にはぢず、名望世に聞キコエあり。十七歳にて納言に任じ、数十年の間朝廷
の故実コシツに練じ、大臣大将にのぼりて、懸車ケンシャの齢までつかうまつらる。親王の女祇
子キシの女王は宇治関白の室シツなり。仍此大臣をば彼関白の子にし給て、藤氏トウジにかは
らず、春日社にもまいりつかうまつられけりとぞ。又やがて御堂の息女に相嫁アヒカせられ
しかば、子孫もみな彼外孫なり。この故に御堂・宇治をば遠祖トホツオヤの如くに思へり。そ
れよりこのかた和漢の稽古をむねとし、報国の忠節をさきとする誠あるによりてや、此
一流のみたえずして十余代にをよべり。その中にも行跡カウセキうたがはしく、貞節おろそ
かなるたぐひは、をのづから衰てあとなきもあり。向後キャウコウと云ともつゝしみ思給べき
ことなり。大かた天皇の御ことをしるし奉る中に、藤氏のおこりは所々に申侍ぬ。源の
流も久くなりぬる上に、正路をふむべき一はしを心ざしてしるし侍るなり。君も村上の
御流一とをりにて十七代にならしめ給。臣も此御すゑの源氏こそ相つたはりたれば、た
ゞ此君の徳すぐれ給ける故に余慶ヨキャウあるかとこそあふぎ申はべれ。
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